斉藤孝  カメのブログ

カメの個人的ブログです。私の趣味、ガーデニング、友人との交流

ヴェノス・アイレス紀行     2020年2月

多民族国家アルゼンチンの
              ヴェノス・アイレス
          2020年2月   
 注 ブェノスアイレスを表記する事も多いが発音に合わせてヴェノス・アイレスと表記。   

アルゼンチン共和国
 訪れたのはラテンアメリカの大国アルゼンチンである。人口約4000万人。イタリア系やドイツ系も多く、レバノン系アラビア人もいる。東洋系では中国人が多く僅かに日系人もいる。驚いたのは大統領にもなったカルロス・メナムはシリア系イスラム教徒だった。あの日産のカルロス・ゴーンもレバノン系アラブ人でキリスト教・マロン教徒だった。彼の場合はブラジルのアマゾン生まれだ。国籍はブラジルとレバノンらしい。

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          5月広場と大統領私邸 アルゼンチンの国旗

ユダヤ人も多く数十万人も住んでいる。空港の待合室や機中でも大家族のユダヤ人親子に会った。伝統的なキパを頭にかぶり黒装束の姿をしている。私が「シャローム」と挨拶すると嬉しそうだった。あまり黒人は見当たらないからアメリカ合衆国やブラジルとは違う。
ブラジルがアメリカ合衆国に似ているの対しアルゼンチンは西欧スペインやフランスにとても似ている。

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       エビータのネオンサインがあるビル

アルゼンチンが移民受け入れ大国であったのは19世紀末まで、20世紀後半になると移民供給国になり優秀な若者や高学歴者はアメリカ合衆国やオーストラリア、スペインなど西欧に移民している。不景気であり職不足、政情不安などが原因なのだ。社会の空洞化が始まっている。移民が憧れた新大陸はもはや昔の話。時代は変わり新大陸から旧大陸へと人の波は動く。

さて、アルゼンチンに来たのだからタンゴの名曲『ラ・クンパルシータ(La Cumparsita)』を聴いてみよう。Alfred Hauseが奏でる名演奏。


   YouTubeから引用した。 かなり刺激的なポーズである。

タンゴを踊りたい
 カリフォルニア大学デービス校で客員教授として在米中、2002年冬にペルーのクスコに行きマチュピチ遺跡を見物した。18年前になるから久々のラテンアメリカである。乗り継ぎのトロントから飛行機はスペイン語を話す人々で満員だった。メキシコなど中米のスペイン語よりも早口でアクセントがきつい。顔つきは遺伝的にインディオの眼つきはしているが白人顔に近い。金髪のセニョリータもいる。アルゼンチン美女とタンゴを踊れるかもしれない。

メンドーサの赤ワインMalbec
 それからメンドーサのワインも飲みたい。Malbecと呼ぶ赤だ。Malbecは、アルゼンチンワインを代表するぶどう品種でもあり、「黒ワイン」と呼ばれるほど色濃く、タンニンのしっかりしたワインに仕上がる。Malbecワインをがぶ飲みできる日々が続くだろう。幸福だ。

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    タンゴは官能的である

ヴェノス・アイレス
 この大都会は南米とは思えないヨーロッパの町並みで、パリのシヤンゼリゼのようなプラタナスの街路樹が美しい。まさに南米のパリである。行き交う人々も白人ばかりだ。19世紀に大量のイタリア人など移民したことによる。それまでアルゼンチンは牧童ガウチョに代表されるインディオと白人の混血「メスティーソ」や純粋のインディオだけだった。初期にはスペインから来る女性はほとんどいなかったので、スペイン人男性とインディオ女性の結婚は普通のことであった。ブラジルにはアフリカから黒人奴隷を連れてきたから、その混血も増えて複雑な人種構成になった。

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    バカでかい牛肉ステーキ

巨大な牛ステーキ
 アルゼンチンの場合は19世紀に南欧や東欧からの白人が入植したことによりメスティーソを追いやった。それまではメキシコやペルーみたいなインディオ顔だった。ところで、現在のローマ法王フランシスコはイタリア系アルゼンチン人である。アルゼンチンは白人の国に変わった。
さて、この巨大な牛ステーキはアルゼンチンでは子供用である。パンパと呼ぶ大草原で牧童ガウチョによって大切に守られて育つアルゼンチン牛は世界中の食卓に並んだ。20世紀初めまでアルゼンチンは西欧諸国の食糧補給地として大繁栄したのである。

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       この巨大なステーキをいかにして処理するか

さて、人種の話の続きであるが、お隣のブラジルは日系人もいて黒人との混血も多いがヴェノス・アイレスは違っていた。パリよりもヨーロッパ的である。金融街レストランでメンドーサ白ワインを飲んだ。概して物価は安いようだ。町行く美しいセニョリータの歩き姿を楽しんだ。

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    スペインの影響でオムレツが美味しい

エビータ

 アルゼンチンの名前はミュージカル「エビータ」のエバ・ペロンで知られるようになる。エバはアルゼンチンの田舎で生まれた貧しい私生児だったが、やがて大統領ペロンの夫人にまでになる。そして33歳で癌に侵されてその生涯を終える。エバの生涯は実にドラマチックだ。映画「エビータ」はエバの生涯を描いてる。ミュージカル舞台劇もあるが私はマドンナ主演の映画「エビータ」が大好きである。エア・カナダの機中映画プログラムの中に見つけた。なかなか面白かった。あのマドンナがこのような名演技をするとは驚き。

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      エバ・ペロン(エビータ)は美人だった

チェ・ゲバラ

 キューバ革命でカストロと共に戦ったチェ・ゲバラ(本名Ernesto Guevara)はアルゼンチン人だった。エルネスト・ゲバラはバスク系母とアイルランド系父の間に生まれた。ブエノスアイレス大学で医学を学ぶ。在学中の1951年に友人とオートバイで南アメリカを放浪旅行する。

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      ゲバラはアルゼンチン人である

この物語は映画化されて『モーターサイクル・ダイアリーズ』と題するものになった。私も見たことがある。エルネスト・ゲバラは旅を通してラテンアメリカの悲惨な民衆の姿に接しマルクス主義に共鳴していった。やがてキューバ革命に参加する革命家チェ・ゲバラの誕生である。ゲバラの最後はボリビアで射殺される。その一生は見果てぬ夢を追うドン・キホーテ的であるが欲望もなく純粋無垢、ロマンチストだったと思う。しかし彼は偉大だ。

3万人も虐殺
  マドンナ主演映画『エビータ』のなかでチェ・ゲバラが登場する。正確にはゲバラに扮した狂言回し役。その役はスペイン男優アントニオ・バンデラスが演じた。バンデラスの顔は若い頃のチェ・ゲバラに似ている。

映画ではエバの死を悲しむ民衆の姿に「彼女は本当にそれほど素晴らしい人物だったのか?」と、チェは疑問を投げかける。
アルゼンチンはごく最近までファシズム的軍人政権が続いた。チリと同じくドイツ・ナチズムに憧れたラテンアメリカといえる。強権的な治安維持で反体制派は非合法的に3万人も虐殺された。ペロン政権も似たようなものだった。広場には行方不明者の写真が残っていた。

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カミニートの街角。上のバルコニーにローマ法王フランシスコが顔を出している。アルゼンチン出身(新大陸出身)の初のローマ法王となった。

ペロニスタ

  ペロン大統領は軍人出身で1943年のクーデター以降、労働組合の支持を得て徐々に力を持ち始めた。ペロンの支持者をペロニスタと呼ぶ。エバはペロニスタの勢力拡大に利用されていく。そして26歳の時にペロンと結婚して大統領夫人の座を獲得した。ヴェノス・アイレス中心部にある大統領官邸カサ・ロサダのバルコニーで民衆から声援を受けた。

エビータを聴く
 マドンナ主演映画『エビータ』でエバは「アルゼンチンよ泣かないで」(Don't cry for me Argentina)をカサ・ロサダのバルコニーで歌う。マドンナは熱演していた。では、Don't cry for me Argentinaを聴いてみよう。Nicole Scherzinger 
が歌うものでYouTubeから引用した。


 この映像はYouTubeから引用した。

カミニートでタンゴ
 ボカ地区カミニート(Caminito)を散策していたら美女からタンゴ踊りを求められた。米5ドルを支払い踊りのポーズだけ写真撮影できた。きつく抱きついたようだ。77歳喜寿の好色老人の濃厚接触の姿。哀れだ。

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      濃厚接触でタンゴを踊る

世界初の女性大統領
 ペロンは不死身で1970年代に再び大統領に返り咲く。エバ亡きあとイザべルという女性と結婚。このイザベルが不思議なめぐりあわせでペロンが死んだ1974年になんと大統領になった。世界初の女性大統領が誕生した。ペロンはエバやイザベルなど素晴らしい配偶者に恵まれた果報者だった。こんな女性は日本にはいない。羨ましい。

憧れのタンゴ

 タンゴの名曲『ラ・クンパルシータ(La Cumparsita)』は、ウルグアイのヘラルド・エルナン・マトス・ロドリゲスによって作曲された。ウルグアイはラ・プラタ河を挟みヴェノス・アイレスの対岸にある国。第二次大戦中ドイツのポケット戦艦「グラフ・シューペ号」が自爆した湾。この出来事を題材にしたドイツ映画を見たことがある。
La Cumparsitaを自分で歌いながら再度タンゴ踊りに挑戦。相手の彼女はあきれていた。5ドル追加料金を支払った。

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      様になっている

ヴェノス・アイレスの貧民町だったボカ地区はアルゼンチン・タンゴ発祥の地とされる。ボカ地区の小道を「カミニート(Caminito)」と呼ぶ。私はカミニートでタンゴの真似事を十分に楽しんだ。私は時間があればヴェノス・アイレスの大学に行き、学生諸君と会話したかったが、今回は残念ながらカミニートで美女とタンゴ姿だけに終わった。深く反省している。

ヴェノス・アイレスの繁栄とアルゼンチンの平和を祈る
           Muchas Gracias

続編「パタゴニア氷河とイグアス滝を眺める」を読む。

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パタゴニア氷河とイグアス滝    2020年2月

パタゴニア氷河とイグアス滝を眺める
                  2020年2月


新型コロナウィルス
 2020年2月4日に新型コロナウィルスの感染拡大する極東を後に南アメリカ・アルゼンチンを訪れた。まず羽田からカナダ・トロントへ12時間かけて向かう。そこで乗り換えてチリ・サンチャゴまで14時間もかかる。

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           アルゼンチンの地図

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         巨大なロス・グラシアレス氷河

サンチャゴで一服し3時間かけてブェノス・アイレスへ到着した。約30時間もの超長いフライトだった。さすがに疲労困憊。日本とは地球の反対側になり、12時間の時差があり昼と夜が真逆。南米の季節も日本と反対で2月はまだ真夏であった。        

パタゴニア(Patagonia)
 旅の目的地はパタゴニアである。ブェノス・アイレスから飛行機で約3時間飛び、パタゴニアの入口の町エル・カラファテに向かった。カラファテという名前はパダゴニアに多い棘のある低木、カラファテに因んでいる。その実はブルーベリーに似ている。原野に咲いていて食べてみると酸味があってブルーベリーのような味がした。

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    左に折れた山はモレノ山(1.670m) 手前はアルヘンティーナ湖

アメリカの登山用品

 「パタゴニアに行ってきました」というと何所のアウトレットで買ったのですかと質問された。これには困った。Patagoniaはアメリカの登山用品、衣料品の製造販売を手掛けるメーカーのブランド名として有名。Patagoniaは16世紀ポルトガル大航海時代のマゼランが付けた由緒ある名前だ。先住民である「パタゴン」(patagon)族に因むものだ。

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    アルヘンティーノ湖に注ぐ。氷河はここで崩壊する。

マゼラン海峡
 パタゴニアはアルゼンチン南部の広大な地域をいう。その最南端にはマゼラン海峡を挟みフェゴ島もある。パナマ運河のない頃はボストンからサンフランまでに行くにはマゼラン海峡やホーン岬を回ったのだ。まだ大陸横断鉄道も完成していなかった。おそらく日本開国を促したペリー提督の4隻の軍艦もパタゴニアのフェゴ島を通過したのだろう。

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     アルゼンチンの国旗はブルーで綺麗だ。

ペリト・モレノ氷河

 パタゴニアは乾燥が激しく砂漠が広がっている。アンデス側には多くの氷河がある。氷河の数は大小50以上あるといわれている。その規模は、南極、グリーンランドに次ぐ量である。 パタゴニア氷河は、アンデス山脈に降る多量の雨によって作られる。平均年間に100mから200m移動するといわれている。氷河の崩落を観察しやすい。

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     ペリト・モレノ氷河を眼前にする

クリスタルブルーの氷河
 気温が上がる夏は、ビルほどの高さの氷の塊が轟音と共に一気に湖へと崩れ落ちる。長い時間圧縮されたことによって空気をほとんど含まなくなった透明な氷は、波長の長い赤の光を吸収するため、氷を透過した光は青い。

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     氷河というよりも氷原だ。歩道を歩いた。

ロス・グラシアレス(Los Glaciares)
 あまりにも巨大な氷河は「氷原」という印象だった。ロス・グラシアレス(Los Glaciares)はスペイン語の「氷河」の複数形で、公園名は「氷河群」といった意味である。このあたり一帯はロス・グラシアレス国立公園と呼ばれている。スイス・アルプスの氷河と違い高山の谷間に出来たものとは異なるようだ。アンデス山脈もサンチャゴ近くにあるアンデス最高峰アコンカグア(6,960m)から徐々に低くなりパタゴニアに来ると2,000m級の低さになる。

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        凄い迫力

モレノ山
 氷河の左の頂上が左に折れた山をモレノ山(1,670m)と呼ぶ。まるで3,000m級の高山に見える。アンデスの山々に太平洋の湿気を含んだ風がぶつかり、大量の雪を降らせ、積もった雪が圧力で氷結し氷河を形成する。日本の上越の山々と規模が違う。長く巨大なアンデスの山並みがあるからだ。

アルヘンティーノ湖

 降った雪が氷河になるまで10年もかからない。ペリト・モレノ氷河はアルヘンティーノ湖に流れ込んでいる。氷河の長さは30km、終端部は幅5kmで、水面からの高さは60m、水面下に110mの氷があり、氷全体の高さは170mである。氷河の厚さは最大で700mもある。氷河の進む速度は中央付近で一日あたり最大2mで、流れ出た氷河は対岸の半島にぶつかりアルヘンティーノ湖に注ぐ。氷河はここで崩壊し、停止する。

『Don't Cry For Me Argentina』
アルゼンチンの名を有名にしたミュージカル曲エビータの『Don't Cry For Me Argentina』を聞きながらお読みください。歌うのは懐かしのKaren Carpenter。

     この映像はYouTubeから引用しました。


イグアス滝を眺めるため北上

パタゴニアからブラジル国境を目指した。
 イグアス瀑布を見るためにアルゼンチンを北上した。そこはブラジルとパラグアイに挟まれた場所にある。パタゴニアには氷河があり雪があった。極寒の地から亜熱帯ジャングルの緑の世界へ来た。

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    衣装替えにも苦労した。お揃いのKWVシャツを着てみた。

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        大きな虹が出ていた。

イグアスの滝
 アルゼンチン南部パタゴニアの町エル・カラファテから飛行機でブェノス・アイレスまで約3時間。そこから約1時間半でプエルト・イグアスに着く。

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    見学歩道を歩くと「悪魔の喉笛」というポイントに着いた。

ブラジルとの国境の町だ。亜熱帯で蒸し暑い。短パンとティシャツに着替え夏山歩きの姿になった。国境を越えブラジルに入った。

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     無数の滝の流れが広がる。

イグアスのスペルが気になった。アルゼンチン側はスペイン語で「Iguazú」と書いてあり、ブラジル側はポルトガル語で「Iguaçu」と書いてあったが町のいたるところに「 Yguasu」とも書いてある。これは先住民グアラニ族のグアラニー語なのである。 Yguasu(イグアス) とはグアラニー語で大いなる水という意味である。

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       突如森から水が湧きだしたようだ

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     ナイアガラ瀑布と違い緑が多い

「悪魔の喉笛」
 イグアスの滝は南米大陸のアルゼンチンとブラジルの二国にまたがる世界最大の滝で北米のナイアガラ滝、アフリカのビクトリア滝と共に、世界三大瀑布に数えられる。遥かパラグァイまで川幅は広がる。

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     半裸の女性の横で映した。

最大級を誇り、大小275もの滝が約4kmにわたって連なり、毎秒65000トンもの水が最大落差80mの滝壺へ落下する。

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     最大の滝「悪魔の喉笛」は凄い迫力

高さ約90メートルの最大の滝「悪魔の喉笛」は凄い迫力だった。大量の水が流れ落ち、水がまるで雲のように舞い上がる。

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     滝の水の色は所々黄色い。光の影響によるもの。

滝見物の人々は世界中から来ていた。大小無数の滝がかかっているのが大きな特徴であり、それを縫うようにして掛けられている遊歩道を歩きながら景観を楽しめる。

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   こんな激流をデ・ニーロ扮する宣教師は滝つぼに落下した

映画『ミッション』

 イグアス滝と無関係であるが巨大な滝を舞台にした映画を思い出した。映画『ミッション』である。ロバート・デ・ニーロ扮するイエズス会宣教師の物語だった。物語は複雑だったが見ごたえある作品だった。

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     あの映画をもう一度ゆっくりと見てみよう。

イグアス滝に流れるパラナ河上流から宣教師が大きな木の十字架に縛られて流されてくる。そしてイグアス滝に落ちていくというものだった。映画ポスターでも迫力ある『Mission』のシーンである。デ・ニーロは奴隷狩りの悪党から宣教師になり、インディオのために戦い殉死する。

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十字架に縛られた宣教師が滝つぼに落下する。

次はパラグァイに入りボリビアまで上って行きたい。ラテンアメリカの広さと豊かな自然、そして人々と文化にさらに興味が湧いてきた。

パタゴニア氷河とイグアス滝 大自然に心から感謝したい。
   muchas gracias     obrigado

   続編「ヴェノス・アイレス紀行」を読む。


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