斉藤孝  カメのブログ

カメの個人的ブログです。私の趣味、ガーデニング、友人との交流

「カメの旅物語」(その5) 海外への憧れ  2022年8月19日


「カメの旅物語」(その5)  海外への憧れ
                2022年8月18日
                         斉藤 孝
続編(その5)
小さい頃から海外に憧れました。それは地図だけの世界でした。
これまでの海外の旅の想い出について写真を題材にして述べたものですが、プライベートな雑文付き写真アルバムといえます。

ke19.jpg
   アララト山  アルメニア・トルコ

1984年、 私は42歳になりました。東芝でシステム・エンジニアとして16年間、勤めていました。様々な情報システムの設計に関わり非常に多くの実務経験を得ることができました。

CIMG1599.jpg
   血の教会 サンクトペテルブルク ロシア

海外出張を数回も実現し、仕事に満足していましたが、どうしても学術的な研究に挑戦したくなりました。そんな時に大学の指導教授から「推薦の声」がかかりました。

kr10.jpg
   エトナ火山 シチリア島 イタリア

新たに設置する情報関連の女子大の教授職としてです。名古屋にある「愛知淑徳大学」へ奉職することを決心しました。1988年に、初の卒業生が社会に出しました。「テクノレディ」と名付けた女性のシステムエンジニアが誕生しました。

   ke16.jpg
      モンテローザ スイス

発泡酒教授と名誉教授
本物が忘れ去られて偽物が、それに取って代わるのが無法なIT時代です。発泡酒のような大学と教授が増えてきました。私もその一員の発泡酒教授かもしれません。年金という捨扶持が支給されますが、大学勤務時代は携帯脳学生を厳しく一喝教育しました。テニスもお酒も弱くなり、涙もろくなりました。 

IMG_6261.jpg
  ポンペイ遺跡 ナポリ イタリア

2012年に退職し、現在は中央大学名誉教授として余生を過ごしています。最終講義では「概念理論への回帰」と題して記念講演を行いました。

ke15.jpg
    ゼノビア宮殿 パルミラ シリア

                                
プログラム言語に対して日本語や中国語、英語やフランス語は自然言語と言われます。自然言語は日常の会話で使われますが、ヨーロッパなど外国に行くと様々な自然言語が使われています。

CIMG0270.jpg
  シェンブール宮殿 ウィーン オストリア

私は外国語の会話は得意ではありませんが、外国人が喋っている外国語を特定することが大好きです。

    ke17.jpg
     タクラマカン砂漠  敦煌 中国

隣の席で会話を楽しんでいる外国人が喋っているのは、あれはロシア語にちがいない。あのアクセントはスカンディナビアのスエーデン語ではないか。

kr07.jpg
  敦煌莫高窟  敦煌 中国

フランス語やイタリア語などラテン系言語、セルビア語やポーランド語などのスラブ系言語など様々な外国語に接する機会がある海外旅行は楽しみです。

ke14.jpg
  エルミタージュ宮殿 サンクトペテルブルク ロシア

大学を退職してから専門書と学術資料を全て捨てました。私の著作である膨大な論文抜きずりや寄贈書も一切合財処分しました。本箱もロッカーも空っぽになり、知的減量を実現できました。

ke07.jpg
  ベネチア イタリアン

いまでは本も読みたくなく本屋も図書館にも行きたくありません。本から解放されて血圧も正常になり健康的な毎日 です。新聞も読みたくありませんが、非常に興味があるのは週刊誌の新聞広告です。

CIMG7983.jpg
 サンチャゴ・デコンポステーラ スペイン

見出しの付け方には毎度感心しています。ホームレスが岩波新書を読む活字大国の日本です。

ke11.jpg
  三位一体教会 モスクワ ロシア

書籍という小さなスキーマ
人は世界を理解しようとする時、あらかじめ大まかな略図を持っています。それこそが世界を理解する概念の枠組みであるスキーマとなるものではないのか。

ke12.jpg
  エルミタージュ サンクトペテルブルク ロシア

その昔、書籍という小さなスキーマを学びとることをリテラシーといいました。確かなことは、その原語のリテラ(Litera)が表しています。それは文字で表された主題は抽象化された概念であり、いかにして実世界の具体像に対応付けて描くかという文字の解読能力のことでした。

ke09.jpg
  ブハラ ウズベキスタン

喜寿を過ぎ、冥途への旅もまじかな私はもはや思い残すことなぞありませんが・・・。ささやかな過去の栄光を粉飾させる「想い出を飾る」という楽しみだけが残ったみたいです。そもそも「飾る」ような他人に見てもらう豪華な「過去」など有り得ないのですが。未練がましく往生際が悪い。浅ましいことにみせびらかせたい。

ke10.jpg
   サマルカンド ウズベキスタン

高齢になると哀れにもこんなことで喜ぶので情けない。安ものの金縁の額を付けて「想い出を飾る」。自己陶酔で我慢すべき。我ながらはずかしい。

ke08.jpg
  ベローナ イタリア

さすがに80歳もまじかになり体力・気力は衰えました。薔薇手入れや旅行欲にも鈍感になりました。しかも酒量も減少。デジタル操作だけが息抜き趣味なので運動不足になりポッコリ腹姿で醜い。80歳の老プログラマーは待望のデジタル社会を愉しんでいます。

ke06.jpg
  ヒワ  ウズベキスタン

DX(デジタル変革)は印鑑や紙の封建社会を砕き、自由平等な新世界を実現しました。しかし孫から優れたPC操作を教えられて危惧することは、デジタル格差が生まれることです。

ke01.jpg
  アブシンベル神殿 アスワン エジプト

シャンパン嫌いのシャンパーニュ  2019年11月
お酒なんでも大好きなカメ(私の愛称)ですがシャンパンだけは心底楽しめません。サイダーみたいな泡がありワインらしくない。私は貧乏人の大酒飲みなのでシャンパン本来の味など分かっちゃいない。日本酒の中で香りが強い吟醸酒も旨く飲めませんね。

ke02.jpg
  タージマハル アグラ インド

ボーヌの「栄光の3日間」   
ブルゴーニュ(Bourgogne)の中心にある都市、ボーヌ(Beaune)では11月16日から開催されるワインの祭典を見てきました。ボーヌには鮮やかなモザイク状の瓦屋根の『オテル・デュー(施療院)』やワイン博物館がありました。

ke05.jpg
  ベネチア イタリア

このあたりコート・ドゥ・ボーヌはコート・ドゥ・ニュイとともに黄金の丘(Cote d'Or)と呼ばれ、フランスでも指折りのワイン生産地です。大好きなピノ・ノワール(Pinot Noir)は、赤ワイン用ブドウ品種でブルゴーニュを原産地とします。

ke04.jpg
   プレショウ スロバキア

真冬1月になると花々は少なく、庭は寂しくなります。それでも寒さに耐えて咲いてくれる花々があります。殺風景な庭は黄色のビオラで賑やかになりました。ビオラはスミレの仲間。大柄の花をつけるパンジーよりも可愛らしい。

ke03.jpg
 スフィンクス ギザ エジプト

しかも寒さにも負けず健気に咲いてくれます。小さな黄色のビオラだけが「オントロジの庭」で咲き誇っています。愛らしいビオラにオントロジをつぶやきました。

kd18.jpg
  アクロポリス アテネ ギリシャ 

オントロジとは、「概念の庭」
では、「概念」とは、よく聞くコトバですが厳かで肩ぐるしい意味になります。簡単に言えば、カメの流儀や考え方、思想などライフスタイルのことです。
「カメのライフスタイル」と言えば良いのに、少しばかり気取って「オントロジの庭」と呼ぶことにしました。

ka02.jpg
  サントリーニ島 ギリシャ

花咲か爺                             
「花花・酒酒」の毎日でした。大好きなガーデニングに励み、「花咲か爺」と呼ばれています。パソコン修理、大工、庭仕事、便利屋などの合間、海山自然の中を歩きまわった平穏な一年でした。あらゆるメディアが電子化されていくデジタルメディアの世紀の真っただ中にいます。紙を使う書籍は電子書籍に変身し、文字を有する社会では書籍を読むことは教養とされますが、はたして電子書籍でも教養は変わらないものなのか。

続く   「カメの旅物語」 終わり

バックナンバー(カメの旅物語)
その1 | その2 | その3 | その4 | その5
----------------------------------------------------------
---->  カメのホームページへ戻る
スポンサーサイト



「カメの旅物語」(その4) 海外への憧れ  2022年8月18日

「カメの旅物語」(その4)  海外への憧れ
                2022年8月18日
                         斉藤 孝
続編(その4)
小さい頃から海外に憧れました。それは地図だけの世界でした。
これまでの海外の旅の想い出について写真を題材にして述べたものですが、プライベートな雑文付き写真アルバムといえます。

kd18.jpg
  パルテノン神殿 アテネ ギリシャ

12年前の2010年晩秋11月、ネパールに出かけてエベレスト街道をトレッキングしました。その道順は、タンボチェ(3867m)、パンボチェ(3901m)、ペリチェ(4215m)、トゥクラ(4593m)、ロブジェ(4930m)、ゴラクシェブそしてゴールはカラパタール(5545m)でした。

DSCF8793.jpg
  ソウル中央駅 ソウル 韓国

渓谷を流れるドオドコシ川はエベレストの氷河を源流とする川で、急流を吊り橋で数回渡りました。進むにつれて酸素が半分となり高山病の対策は重要でした。

kd19.jpg
  エラクリオン  クレタ島 ギリシャ

高地に住むチベット人やシェルパ族にとって普段の生活の道ですから、多くの村々が点在し子供たちは学校に行き、人々はラマ教に帰依する信仰深い穏やかな生活をおくっています。

081114-142438ポンデュガール水道橋
   アルル プロバンス フランス

日本人にも馴染めるチベット仏教(ラマ教)です。彼らの顔は日本人とそっくりでした。そして何処でも聞こえる唄は「レッサンピリリー」の歌声でした。神々のヒマラヤの荘厳な峰々の姿こそ想い出を飾る最高の記念になりました。

kd17.jpg
  その男ゾルバ アテネ  ギリシァ

2020年3月はアルゼンチンのパタゴニアに行きました。パタゴニアは乾燥が激しく砂漠が広がっていますがアンデス側には多くの氷河があります。氷河の数は大小50以上あるといわれています。

kd14.jpg
  サラエボ ボスニアヘルツェゴビナ

その規模は、南極、グリーンランドに次ぐ量。氷河の左の頂上が左に折れた山をモレノ山(1,670m)と呼びます。

DSCF1782.jpg
   ストラトフォード イギリス

アンデスの山々に太平洋の湿気を含んだ風がぶつかり、大量の雪を降らせ、積もった雪が圧力で氷結し氷河を形成するのです。

kd13.jpg
 モスタール ボスニア

ウクライナを憂う
ロシアがウクライナに侵入した。ウクライナはロシアと同じスラブ人。仲の良い兄弟でした。何故、同胞でもあるウクライナを成敗するのか。

Patagonia.jpg
  パタゴニア氷河  アルゼンチン

極東シベリアにいる8割の住民はウクライナ系です。彼等は19世紀末、ウクライナ・オデッサから移民船に乗り、憧れの国アメリカを目指しました。

CIMG0383.jpg
   タシケント ウズベキスタン

ところが着いたのはサンフランシスコではなく、ウラジオストックだったのです。シベリアは流刑の地。騙されました。

kd16.jpg
  スロベニア

シベリアは、アメリカ西部の開拓(フロンティア)とは全く異なる、怨念を貯め込んだ暗黒の地でした。それでも善良で素朴なウクライナ農民は、厳しい寒さのシベリアで耐え忍び生きてきました。ウクライナ農民は粘り強く、熱心な宗教の民でもあります。

kd12.jpg
  モスタール  ボスニアヘルツェゴビナ

ギリシャ・カトリック教
2000年にポーランド国境に近い古都、リヴィウ(Львів)を訪問しました。
ギリシャ・カトリック教という融合宗教(ユニエイト)を信ずるルテニア人の研究のためです。

ITboronia.jpg
   ボローニア  イタリア

ルテニア人はスラブ民族だがウクライナ正教会に属してはいません。
固有の宗教と文化を大切に守る親切で素朴な人々です。

kd11.jpg
  ドゥブロブニク クロアチア

ルテニア人は、ウクライナ西部、カルパチア山脈でユニエイトを守り、ナチスドイツや赤色ロシアの弾圧に耐え、レジスタンスを挑み生き抜いてきました。
スロヴァキアのタトラ山脈民謡『ゴラール』の歌声は、ルテイニア人にも共感される美声(アカペラ)です。

kd15.jpg
    ザグレブ クロアチア

キエフ・ルーシン
2018年はキエフとオデッサを観光しました。エイゼンシュタイン『戦艦ポチョムキン』の階段を登りました。

kd08.jpg
  ペトラ遺跡 ヨルダン

大河ドニエプルが流れる黄金の丘に首都キエフ(Київ)がありました。10世紀ウラジーミル大公はキリスト教を受け入れました。歴史的に、キエフ・ルーシンはスラブ民族の聖地でもあります。
 
kd07.jpg
  アウシュビッツ収容所跡  クラクフ ポーランド

ウクライナ・コサック
森繁久彌のミュージカル『屋根の上のバイオリン弾き』は、ユダヤ系ウクライナ人家族の物語でした。虐められ、弾圧されて、最後はシベリアに流されていく。
現ウクライナ大統領のゼレンスキーもユダヤ系の人物。

kd06.jpg
   ヒンズー教寺院 マレーシア

コサックの物語『隊長ブーリバ』はユル・ブリンナー主演で映画化もされました。
ブーリバは、ポーランド王国の侵略に抵抗したウクライナ・コサックのヘトマン(族長)でした。エリア・カザン監督『草原の輝き』の女優ナタリー・ウッドはウクライナ系アメリカ人として有名。ウクライナ人はカナダ中西部や米国中西部に多く住んでいます。

kd10.jpg
  ドゥブロブニク  クロアチア

「カイバー峠」    アフガニスタンの崩壊  2021年9月
1994年のガンダーラは、パキスタン北西部で栄えたガンダーラの仏教遺跡を巡る旅でした。ペシャワルから北方にカイバー峠を眺めました。あの峠を越えればアフガニスタンに入国できる。そこには憧れのバーミアンの大仏遺跡がある。

kd09.jpg
   チラナ  アルバニア

バーミヤン渓谷には多くの石窟があり、バクトリア様式の貴重な仏教美術を見ることが出来るだろう。その周辺に住むハザラ人は風貌が日本人とよく似ています。
コーカサス系パシュトゥン人と違うモンゴロイド系の顔なのだ。是非とも会ってみたい。失われたジンギスカンの落ち武者の子孫ではないか・・・。
あの頃のアフガニスタンは1989年のソビエット軍の完全撤退後で内戦状態なので入国できなかった。

kd01.jpg
 エルミタージュ宮殿 サンクトペテルブルク ロシア

輪廻転生と鳥葬儀式   2020年3月
チベット・アミニズム宗教の信仰形態として特徴的なものは、マニ車、タルチョー(経旗)、鳥葬などが残っています。鳥葬は古代ペルシャ・ゾロアスター教徒と同じものです。違うのはゾロアスター教では死体は悪魔の住処。

kr07.jpg
  莫高窟 敦煌 中国

それを火を使い火葬するなど火を崇拝するゾロアスター教徒にとりタブーです。死体は放置されてハゲワシの餌にします。インドへ逃げたパーシー教徒は「沈黙の塔」に置きハゲワシに食わせます。

kd04.jpg
  赤の広場  モスクワ ロシア

チベットの鳥葬の考え方は全く異なります。貰った命を還元する。魂が抜け出た肉体を他の生命ハゲワシに布施として与えることで、 前世の罪を洗い流し天に還る。ハゲワシは魂が去った後の肉体を天へと届ける。鳥葬師により細かく裁断され、骨も石で細かく砕く。

kr09.jpg
   客家 厦門 中国

これぞ天空チベットの信仰「輪廻転生」である。宗教よりもチベット哲学と呼ぶべきもの。全てを無に戻し再生を願う。戒名や墓地に葬るなどは欲望の証。鳥葬という思想は、私がこれまで抱いてきた世俗邪念を圧倒しました。

kd05.jpg
  リラの僧院  ブルガリア

パンデミック
これは感染症の世界的流行をいう。こんな言葉は知りませんでした。Pandemicと書き「Pan」が付いていますからラテン語の「汎」に当たります。PanAmericaのように使われていました。語源にこだわればギリシア語のPandemia(ラテン文字表記)となります。

Tango.jpg
  カミニートでタンゴ  ブエノスアイレス アルゼンチン

14世紀のペストや19世紀のコレラ、さらに20世紀のインフルエンザはパンデミックになります。スペイン・インフルエンザは一億人の死者をだしたそう。国名まで付けられたスペインは大変迷惑なことになりました。

kd03.jpg
   ノブゴドロ ロシア

感染症と人類との関係は一万年前からだそうです。人間が野生動物を家畜としたことに始る。ウシからは天然痘、アヒルからインフルエンザなど野生動物のウィルスが人間に持ち込まれた。そして人から人へとウィルスは感染し天然痘やペストになる。都会に人々が密集し、地球の隅々まで交通網が発達。人々が移動し交流しています。パンデミック感染拡大に最適な時代です。

    kc19.jpg
       モハメド昇天のモスク  エルサレム

インフォデミック
パンデミック感染者の発見をまるで中世の魔女狩りのように日夜報じています。朝からテレビで感染爆発の重大局面(Overshoot)を叫んでいます。Overshootという用語は医学辞書にも載っていません。小池都知事は都市封鎖(Lockdown)を要請したいと叫んでいます。

kb04.jpg
   ナムチェバザール  エベレスト街道 ネパール

Lockdownという用語は、セキュリティ強化のためにソフトの機能を制限するというIT用語なのでなんとなく理解できます。もともと両方とも怪しげな英語なので意味は曖昧ですから無暗に使うべきでないと思います。世界のメディアは言葉だけで過激に人々を煽り立ています。どうやらパンデミックよりもインフォデミック(Infodemic)という情報感染症との戦いも必要です。SNSなどでデジタル世界に拡散するフェイクニュース。緊急事態を煽りパニック的な買い占め、これを機会に封鎖社会を作りだす。インフォデミックによるものです。



バックナンバー(カメの旅物語)
----------------------------------------------------------

バックナンバー(カメの旅物語)
----------------------------------------------------------
---->  カメのホームページへ戻る





「カメの旅物語」(その3) 海外への憧れ  2022年8月17日

「カメの旅物語」(その3)  海外への憧れ
                2022年8月17日
                         斉藤 孝

続編(その3)
小さい頃から海外に憧れました。それは地図だけの世界でした。
これまでの海外の旅の想い出について写真を題材にして述べたものですが、プライベートな雑文付き写真アルバムといえます。

 kr02.jpg     
     ウルムチ  中国

 1976年5月、アメリカ・ウィスコンシン州のマジソン市で開催された医療学会に出席しました。初めてのアメリカ合衆国の旅です。まだ東芝の社員でしたから海外出張はなかなか許可されませんでした。

kr08.jpg
   兵馬工  西安  中国

それはMUMPSと呼ぶ医用プログラミングに関する国際会議でした。医者や医学研究者、メーカのシステム・エンジニアなど多数参加し、多くの友人を得る絶好の機会になりました。

IMG_7002.jpg
  ルクソール  エジプト

その時に知り合った米国の学者仲間の縁で、2001年になり私のサバティカル研修、すなわちカリフォルニア大学客員教授として滞在することが実現しました。

kc18.jpg
   シドニー  オーストラリア

真冬のニュージーランド    2019年7月
2019年7月に初めて真冬のニュージーランドに行きました。Mt.Cook(標高3.724m)の タスマン氷河にスキー付き軽飛行機で着陸し雪山を楽しみました。
南半球でもスイスアルプスのような白銀の山々が待っていました。

  Tara.jpg
    タラの丘 アイルランド

小さな飛行場から6人乗りの小型機が飛び立ちます。雄大なタスマン氷河を登り詰めて深い雪に覆われたタスマン氷河に着陸しました。機体の足には小さな 車輪とその横にスキーが付いています。僅か20分の飛行でMt.Cookの近くの氷河に着きました。

kc16.jpg
     ブラチスラバ  スロバキア

ベネルックス諸国       2018年2月
2月の厳冬期、ベネルックス諸国を訪れるためドイツのデュッセルドルフに入り、コブレンツからライン河下りをしてボンに行きました。ケルンでカーニバルを見物した後、アーヘンとトリーアに行きました。

     kc22.jpg
     赤の広場  モスクワ

共産主義の生みの親ともいえるカール・マルクスが青年期まで暮らした古都トリーアを観光しました。プロイセン生まれの彼は12歳の時にトリーアのギムナジウムに入学しました。

kc04.jpg
  ブランデンブルク門  ベルリン

青年マルクスはユダヤ人詩人ハイリッヒ・ハイネに熱中し将来は詩人になりたいと夢見たそうです。2018年のマルクス生誕200周年でもあり、中国政府から寄贈されたマルクス像を見物する中国人の「レッドツーリズム」(紅色旅遊)の旅行者で賑やかでした。

kc21.jpg
   マチュピチュ  ペルー

チュニジア陸軍により救助  2018年9月       
アフリカ象に乗り込み雪のアルプスを越えてイタリア半島に遠征したという伝説があるハンニバル将軍。彼はローマとのポエニ戦争を戦ったカルタゴの英雄でした。

チュニジア ローマ遺跡    
   カルタゴ  チュニジア

9月にカルタゴの遺跡あるチュニジアを巡りました。カルタゴ滅亡後はローマの支配で繁栄した土地ですから数多くのローマ帝国の遺跡が残っています。

kc15.jpg
   タトラ山脈  スロバキア

ドゥッガ遺跡、エルジェムの円形闘技場。ローマ市に残るコロセッセオに次ぐ大きなものです。この北アフリカの地で剣闘士と猛獣との闘技させたのです。

kc03.jpg
  ベルリン冷戦の壁  ドイツ

北方ブリタニア、ゲルマニアからガリア、東方アナトリア、シリアそして北アフリカまで、 何処に駐屯しようともローマ軍人は円形闘技場、大浴場など標準化された建物で楽しめたのです。

kc14.jpg
   ブレズノ  スロバキア

ローマ人の娯楽は豪快でした。チュニジアは北アフリカに位置しますから南部にはサハラ砂漠が広がります。雨量は極端に少なく乾燥しています。ところが南部に位置するエルジェム円形闘技場を観光した帰り道です。

kr04.jpg
     広東 中国

雲行きが怪しくなりスースの近くで雨が降り出しました。チュニジア人にとり恵みの雨です。なかなか雨は止みません。激しくなり下水が不備な道路が雨水で溢れだしました。

kc13.jpg
   エルサレム  イスラエル

やがて道路が川のように大雨になりました。小さな川の護岸は決壊して付近の道路に水浸しです。大型観光バスの車体底部、トランクルームが水没する状態になりました。そしてエンジンの調子もおかしくなりストップしました。

kc12.jpg
  アレンビー橋  ヨルダン

カナリア諸島クルーズ              
早春3月はカナリア諸島クルーズに出かけました。コロンブスやマジェランなどが住んだこともある島々で す。

UKopera.jpg
  オペラ劇場  キエフ  ウクライナ

カナリア諸島はスペイン領で、マデイラ島はポルトガル領です。アフリカ大陸の北西沿岸に近い大西洋 上にあり大陸で最も近いモロッコからの距離は500kmもあります。

 ka40.jpg
   オフィッツ美術館  フィレンツェ イタリア

テネリフェ島にはスペイン最高峰テイデ 山(海抜3718m)があります。マデイラ島出身サッカー選手のロナルド像と写真を撮りました。

     kc20.jpg
      ベナレス  インド
大航海時代の初期、コロンブスは新大陸アメリカの発見に向かったが実は東のインドに向かう航路の探検でした。イベリア半島に残った最後のイスラム王国グラナダを攻略中だったイザベラ女王から命を受けたコロンブスは1493年にアンダルシアを出港しました。

CIMG0270.jpg
  ウイーン  オートリア

最初の停泊地はカナリア諸島、そしてマデイラ諸島を経て一路大西洋を西に進みました。到達したのは今のカリブ海の島々であり、これを勘違いしてインド諸島であると思ったのです。今日の西インド諸島、すなわちアンティル諸島です。

kc11.jpg
  黄金モスク エルサレム

ナポレオンが生れた島  2019年4月
イタリアの港町ジェノバから美しい海岸リビエラを回りピサの近く港町リボルノを進み船は、コルシカ島のアジャクションに着きました。そこはフランス領でお隣のサルデーニア島はイタリア領です。コルシカ島はフランス革命後に皇帝にまでなったナポレオン・ボナパルトが生れた場所。

kc10.jpg
  嘆きの壁  エルサレム

彼の祖先はポナパルテーノという名のジェノバ出身貧乏貴族の家系だそうです。ナポレオンはフランス語を上手く喋れなかった。

kc02.jpg
   エレバン アルメニア

イタリア人がフランス皇帝になりアルプス越えでイタリア征服を試みました。カルタゴのハンニバルを真似たのですね。ヨーロッパの歴史は実に面白いですね。

kc08.jpg
   ブルノ チェコ

地図にない国  北キプロス共和国  2018年1月
1月に訪れたキプロス島は中世期ベニスの植民地であり、オスマントルコの支配を受けた後、英国の植民地になりました。1960年に独立し、その独立闘争でマカリオス大主教が大統領に就任。

kr01.jpg
   タクラマカン砂漠  敦煌 中国

ところが人口の8割を占めるギリシャ系住民を中心にギリシャとの合併を求める声が根強く、これを背景に1974年にギリシャ合併推進派によるクーデターが発生、これに対しトルコはトルコ系住民の保護を目的に派兵しキプロス島北部を占領しました。

kc06.jpg
   ギリシャ都市遺跡  シチリア  イタリア

これが北キプロス共和国の誕生です。北キプロス共和国は独立国として国際的に承認されていません。

UKholel.jpg
  独立広場  キエフ  ウクライナ

首都ニコシアに緩衝地帯(グリーンライン)がひかれ、北キプロスと南キプロスに分断されています。日本から見ると幻の国ですから地図にない国です。

kc6.jpg
  トカイ  ハンガリー

テーブルマウンテン   南アフリカ 2018年11月
南アフリカのケープタウンに行きました。晩秋11月の日本を出発して香港経由で18時間のフライトでした。テーブルマウンテンでは南極から吹き付ける寒い強風、これが南風なのが北半球の常識と異なります。

IMG_8129.jpg
  イグアスの滝  ブラジル

ケープタウンでは北風が暖かで窓も北向きが最適なのです。ケープタウンはサンフランシスコ湾に似ていてそこに浮かぶロベント島は刑務所のアルカトラス島にそっくりです。

    kc07.jpg
     ベルデナド  スロバキア

マンデラが収監されて過ごした長い年月、そこで共に過ごした貧しいアフリカーンズの白人看守との交流を描いた『マンデラの名もなき看守』を思い出しました。
アフリカーンズはボーア人とも呼び17世紀頃にオランダやドイツから渡った子孫です。後から来た英国系の人々と違い独立心の強い移民でした。英国と独立のために戦ったボーア戦争は有名で、若き日のウインストン・チャーチルも従軍したとも言われています。

kc05.jpg
  ノイシュバンシュタイン城  ドイツ

12年前の2010年晩秋11月、ネパールに出かけてエベレスト街道をトレッキングしました。その道順は、タンボチェ(3867m)、パンボチェ(3901m)、ペリチェ(4215m)、トゥクラ(4593m)、ロブジェ(4930m)、ゴラクシェブそしてゴールはカラパタール(5545m)でした。

kc01.jpg
  サハラ砂漠  エジプト

渓谷を流れるドオドコシ川はエベレストの氷河を源流とする川で、急流を吊り橋で数回渡りました。進むにつれて酸素が半分となり高山病の対策は重要でした。

kc09.jpg
  ナイヤガラ  カナダ

高地に住むチベット人やシェルパ族にとって普段の生活の道ですから、多くの村々が点在し子供たちは学校に行き、人々はラマ教に帰依する信仰深い穏やかな生活をおくっています。日本人にも馴染めるチベット仏教(ラマ教)です。彼らの顔は日本人とそっくりでした。そして何処でも聞こえる唄は「レッサンピリリー」の歌声でした。

続く   「カメの旅物語」(その4)

バックナンバー(カメの旅物語)
その1 | その2 | その3 | その4 | その5
----------------------------------------------------------
---->  カメのホームページへ戻る


「カメの旅物語」(その2)  海外への憧れ  2022年8月16日

「カメの旅物語」(その2)  海外への憧れ
                2022年8月16日
                         斉藤 孝

続編(その2)
小さい頃から海外に憧れました。それは地図だけの世界でした。
これまでの海外の旅の想い出について写真を題材にして述べたものですが、プライベートな雑文付き写真アルバムといえます。

東芝に入社
1969年、27歳で大学院を修了し東芝に入社しました。東芝・電子計算機事業部システム技術部という古風な呼び名の部署です。現在ならば最先端を行くIT事業になります。入社と同じ年に栄子と結婚しました。

CIMG8856.jpg
  ノートルダム寺院 パリ フランス

そして翌年、1970年8月21日に長女啓子が誕生しました。いよいよ東芝でサラリーマン生活が始まりました。

kb23.jpg
(レンブラント 夜警 アムステルダム オランダ 2012年12月)

「ヨーロッパ医療視察団」
入社してから4年後になり1974年に東芝が主催する「ヨーロッパ医療視察団」に参加できるチャンスを得ました。

CIMG0383.jpg
  バクー  アゼルバイジャン

私は医療のシステム開発に従事していたからです。私の仕事の成果を評価されたことも推薦理由だったのでしょう。

DavidJackson1.jpg
  スコットランド人夫妻 ウラジオストク  ロシア

夢にまで見たパリのエッフェル塔やロンドン橋、ベルリンでは東西ドイツを分けるブランデンブルク門など見物できるなど、仕事そっちのけで興奮しました。

kb18.jpg
(アラブ人新婚さん モスク   アブダビ バーレーン 2017年10月)

視察団の顔ぶれは、日本の医学界とその関連団体から派遣された著名な方々で総勢20名になりました。一番若いのは私と阪大医学部・心臓内科の若い先生でした。

     ke16.jpg
       モンテローザ  スイス

ただ心配になったことは、帰国後に詳細な報告書を提出する責務です。膨大な資料を分析し、そして現地の記録を整理しなければなりません。

kr03.jpg
   (中国・山東省 曲阜 孔子の生誕地  2000年6月)

1974年6月に視察団は結成されました。西ドイツ、英国、フランス、オランダ、ノルウェーそしてスウェーデンの病院、研究所など医療施設を視察することが目的です。約1か月の長旅でした。羽田からPan Amに乗り、まずアラスカのアンカレッジに飛びました。

kd16.jpg
      (スロベニア・アルプス スロベニア共和国 2010年5月)

そして北極経由でオランダ・アムステルダムのスキーポール空港に到着しました。ここがオランダなのか。レンブラントの絵画を見たい。ヨーロッパの地に触れた瞬間、地べたを這うアリを見つめて感激しました。

kb28.jpg
(ポカラ宮殿 ラサ チベット 2019年11月)

神は偉大なり(アッラーフ・アクバル)
カタールのドーハやエミレーツのドバイは今や巨大なハブ空港となり、世界中の国々へも飛ぶことのできる便利なゲートウェイとなりました。

kb19.jpg
(レンブラント アムステルダム オランダ 2012年12月)

イスラエルの若者は頭にキッパと呼ぶ小さな帽子を付けていました。「シャローム」と呼びかけると嬉しそうに微笑んでくれました。

   kb21.jpg  
  インカ帝国遺跡 マチュピチュ  ペルー  

私が3回もイスラエルに行きましたというと、貴方はユダヤ人ですかと逆に質問してきました。今度は「サッラーム」とアラビア語で、続いて「神は偉大なり(アッラーフ・アクバル)」と答えると大笑いになりました。

  kb20.jpg
  エンリケ航海王子記念碑  リスボン ポルトガル

オントロジと呼ぶ概念理論
昔の仕事の話で恐縮ですが、私の専門は図書館学や情報学、また情報哲学やオントロジ(概念理論)と呼ばれるものです。一言でいえば分類学です。

kb17.jpg
(ヒンズー文明 アジャンタ・エローラ遺跡 インド 2010年4月)

分類は知識の結晶であり、分類化の知的プロセスには、「わかる」とは「分ける」というオントロジから始まる人類の知識の獲得・表現の歴史が刻み込まれています。

kb13.jpg
(三位一体教会 モスクワ ロシア 2017年2月)

分類により知識は体系化されました。12世紀以降に西欧各地で創設された大学は、アリストテレス以来の「リベラル・アーツ」を基にしてカリキュラムを決めました。

kb14.jpg
(ペトラ遺跡 ヨルダン 2013年5月)

すなわち、「文法学」、「修辞学」、「論理学」という基本の3学科に加え「算術」、「幾何学」、「天文学」、「音楽」によって構成される「自由7学科」(リベラル・アーツ)です。
IMG_3715.jpg
  黄金福の神  台南 台湾

この自由とは、自由人のことであり、自由人にとって必要不可欠な学問を意味します。

kb16.jpg
(ガンジス河沐浴 ベナレス インド 2016年3月)

当時、技術や工学はリベラル・アーツに含まれない奴隷の技法とされていました。その理由はどうやらオントロジ(抽象化能力)が無いからと思われます。
奴隷にとってオントロジを考える優雅な時間はもてなかったのです。

kb15.jpg
(ローレライ ライン川 ドイツ 2017年12月)

21世紀は、ユビキタス情報化社会といわれます。私が危惧をいだくことは、許容量を越えて爆発するような情報空間の中で、人々は日夜仕事や遊びに追われ、奴隷のように過ごすことでオントロジを忘れてしまうことです。

kb09.jpg
(喜望峰 ケープタウン 南アフリカ 2018年1月)

ローマカトリックというメディア 
テレビや新聞などメディアは、パレスチナで闘争が激化しているように大騒ぎしてますが、メディアのみなさんには冷静な報道をお願いします。

kb11.jpg
(マヨルカ スペイン 2017年2月)

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教も共通の祖アブラハムから生まれた兄弟ですから仲良く暮らしてきました。宗教の違いを強調し、 政治に利用してきたのは時の権力者です。

kb12.jpg
(カリブ海クルーズ ハバナ キューバ 2018年4月)

十字軍思想
その中でローマカトリックはユダヤ人を虐め、十字軍思想を生み出しイスラム世界と敵対させることを煽り立ててきました。インドの人々はヒンドゥー教こそが宗教の原点であると誇りにしています。

kb10.jpg
(カナリア諸島クルーズ スペイン 2017年3月)

一神教の厳しさもなく穏やかで寛大な教えです。それを基にしたジャイナ教そして仏教は素晴らしい。中国西域の敦煌の仏像のお姿。

ITcrtikute.jpg
  チンクエテッレ  イタリア

天竺ブッタガヤ・アジャンタな どからガンダーラ・パミールを超えてゴビ・タク ラマカン砂漠を渡り飛鳥天平の日本まで遣ってきたのですね。

kb08.jpg
(ブドウ・ワイン研修 プロバンス フランス 2010年11月)

ユビキタスとカトリシズム
イスラエル国歌、ハティクバ(希望)には、次の詩があります。
「ユダヤの魂が脈打つ限りシオンに向かって、・・・自由の民となって、エルサレムに住むことである。」紀元70年8月、ティトゥスが率いるローマ軍はエルサレムを攻略し神殿に火を放った。

kb07.jpg
(カッパドキア トルコ 2011年2月)

こうして第二神殿の破壊とともにユダヤ人はパレスチナから追放されて、紀元135年の反乱を経て2000年のディアスポラ(離散)が始りました。

kb06.jpg
(ナムチェ・パサール エベレスト街道 ネパール 2012年11月)

言葉(ヘブライ語)と律法(タルムード)と最小限のものだけを携え離散します。旧約聖書はユダヤ教の聖書として、イスラエル民族の歴史を伝えたものです。

kb05.jpg
(カラパタール エベレスト街道 ネパール 2012年11月)

イスラエル民族の起源は、モーセに率いられてエジブトを脱出した出来事、出エジプト(エクソダス)にあるという。

081113-134445フェビアンのワイン
  リヨン・バランス  フランス

エクソダスの一団は荒れ野の旅を経て、パレスティナの農耕地に定着し、紀元前10紀にはダビデ王とソロモン王の王国として繁栄しました。

kb01.jpg
(オペラ・ハウス シドニー オーストラリア 2011年10月)

まもなくこの王国は北のイスラエルと南のユダとに分裂した。エジプトとアッシリアとパビロニアの圧迫を受けて、イスラエル王国は紀元前722年に、ユダ王国は紀元前586年に滅されました。

kb04.jpg
(エベレストを望む ネパール 2012年11月) 

イスラエル民族は、バビロンにおける捕囚として連れ去られる。紀元前540年のペルシアによって解放されて、パレスチナに戻ることができ、エルサレムに神殿を再建しました。



kb03.jpg
(カトマンズーからヘリでルクラに到着 ネパール 2012年11月)

現在の嘆きの壁(ソロモンの神殿跡)の場所である。その後のローマによる支配の時代にイエスは誕生しました。ローマ支配からの解放者イエス、同時にユダヤ教を普遍化する救世主でもあったのです。



kb02.jpg
(ビックベン ロンドン イギリス 2014年11月)

ユビキタス(神は普遍的存在)とはラテン語であるが、このような普遍化(カトリシズム)と密接に関係するようです。

続く    「カメの旅物語」(その3)

バックナンバー(カメの旅物語)
----------------------------------------------------------
---->  カメのホームページへ戻る

「カメの旅物語」(その1)   海外への憧れ 2022年8月15日

「カメの旅物語」(その1)  海外への憧れ
                2022年8月15日
                         斉藤 孝

続編(その1)  歴史・民族・言語  

世界は生き生きとした姿を示してくれます。私の海外旅行の楽しみは、「歴史・民族・言語」の3点セットです。歴史的場所で土地の素朴な人々に会い、彼らが喋る言葉を聞くことです。買い物と食べ物にはあまり興味がありませんから、厳冬の観光客が少ない時期が私の好みに適しています。


    

     (スライド動画による総集編です。  2005年)


2022年9月6日は、私の80歳の誕生日でした。1942年9月6日に中国・山東省の青島で生まれてから、なんと80年も過ごしてきたことになります。私の実父は36歳で病死していますから、その二倍の時を生きながらえ、しかも健康であることに感嘆しています。我儘な一人息子を大切に育て、立派な教養と教育の機会を与えてくれた実母トミ、そして義父、斉藤泰正には心底感謝しています。


      ka40.jpg

      (プリマヴェーラ  フィレンツェ イタリア  2010年12月)


小さい頃から海外に憧れました。それは地図だけの世界でした。

これまでの海外の旅の想い出について写真を題材にして述べたものですが、プライベートな雑文付き写真アルバムといえます。


ka19.jpg
(マッターホルンとアオスタ渓谷  イタリア 2018年6月)
ジュネーブからシャモニーに入り、イタリアのアオスタに行きました。モンブランやマッターホルンと言えばフランスやスイスの登山スポットのイメージが強いのですが、実は北イタリアも隣接しています。

これらの写真を撮影した年代は正確ではなく、掲載順序もランダムに並べました。しかも地域や国名も明確に区分されていません。

              ka21.jpg
           (グランドキャニオン  USA  1999年3月)  
ラスベガスから小さな飛行機で飛びました。東芝に勤務していた頃です。

さらに解説は、写真とは無関係な内容なので読み続けると不快になるかもしれません。その時に思いついた感想や所見を勝手気ままに述べているからです。

              ka22.jpg
          (カリフォニア大学バークレー校 USA 2002年)
客員教授としてデービス校とバークレイ校に約2年間滞在しました。
“Hi Takashi !” 、”How are you doing ?” 昨日会ったばかりの若き女性職員からそう呼ばれると自分の歳も忘れ、気持ちが若くなります。

写真と内容は全く整合していませんから紀行文のように海外の旅を伝えるものではありません。「カメの旅物語」といえます。

ka20.jpg
   (ゴールデンゲートブリッジ USA  2003年)
愛車に乗りこの橋を渡りサンフランシスコ湾の対岸に行きました。オープンで自由平等のお国柄であるから、地位、年齢、仕事、性別、人種など 気にしない。 

初めての海外旅行
1969年に大学院を修了しました。その1969年、早春3月に東南アジアを観光しました。初めての海外体験なので大変興奮していました。場所は、東南アジア。

ka18.jpg
   (パルミラ遺跡  シリア共和国  1993年3月)
当時のシリアは今の内戦で破壊を繰り返す国とは全く違い、平和な輝かしい立派な国でした。
父親アサドは独裁者でしたがイスラム宗教色を嫌った革新的人物でした。

まず香港に渡り、シンガポール、マレーシア、カンボジア、タイと回り最後は台湾でした。1965年頃から両親が沖縄・那覇に赴任していたので、台北からノースウェスト航空に乗り那覇空港に着きました。

ka17.jpg
    (カナリア諸島へのクルーズ船   2018年3月)
カナリア諸島はスペイン領で、マデイラ島はポルトガル領です。アフリカ大陸の北西沿岸に近い大西洋 上にあり大陸で最も近いモロッコからの距離は500kmもあります。

沖縄はまだ米国統治下で琉球政府が治めていました。軍政下なので総務省が発行する特殊なパスポートを使いました。

ka13.jpg
  (キエフの英雄広場  ウクライナ共和国 2018年10月)
最初にウクライナを訪れたのは2003年でした。お隣のスロバキアから小型バンに乗って入国しました。大学の調査隊の一員としです。カルパチア山脈の麓にあるウジホトロド、そして西ウクライナの中心都市リビフに行きました。2022年の内戦で荒廃しています。

香港では中国・深圳との国境にグルカ兵が警備していて、難民も多く中共と緊張した関係でした。あの貧しい共産党支配の中国が今では香港を完全に掌握しました。

ka16.jpg
  (ハバナ航路を行く  カリブ海クルーズ 2018年12月)
カリブに浮かぶ「赤い島」と呼ぶ。私はキューバを訪れることは長年の夢でした。

一番感銘を受けた観光地は、カンボジアのアンコールワット遺跡でした。ヒンズー教に影響されたクメール文明を実感しました。

ka15.jpg
   (サクラメント USA 2003年 親戚一家)
カリフォルニア州の州都、サクラメントは綺麗で平和な街でした。栄子の姉、勝子夫妻は日系アメリカ人の夫フランク、そして娘夫妻はドミニックとジャネ、二人の可愛い娘がいます。日本から84歳になる高齢の母親トミが来てくれました。

タイやカンボジアは熱烈な小乗文教国と理解していましたからインド・ヒンズー文明の影響が強いことがよくわかったからです。

ka14.jpg
    (ナイヤガラ大滝 カナダ  2000年12月)
啓子の婿殿は米国・イサカにあるコーネル大学に留学していましたので、みんなでナイヤガラ瀑布を見物するためにカナダ側に入国しました。

カンボジア王国はシャヌーク王政の下で中立外交を行っていましたが、隣国のベトナムは内戦状態で泥沼化し、米国から北爆が行われていました。

ka09.jpg
  (ギネス・ビール工場 ダブリン アイルランド )
大好物の『ギネススタウト』をがぶ飲みする旅でした。本場のギネスは新鮮で旨い。大麦の一部は蒸かして挽き割りとし焦がすことで、ギネス独特のクリーミーな黒ビールの色になる。

望郷の痕跡が残っていない
1942年に中国・山東省の青島で生まれました。
青島は中国の山東 半島にあり東シナ海に位置する港湾都市です。

kr06.jpg
  青島 中国

ka12.jpg
 (ウラジオストック ロシア  2018年8月)
酷暑の8月に横浜港から洋行しました。目 的地はシベリア沿海州港町のウラジオストックでした。 ウラジオストックはシベリア鉄道の終着駅です。

AGIguasFall.jpg
  イグアスの滝  アルゼンチン

正確には青島市 (チンタオ) 、ローマ字で(Qingdao)と綴ります。現在は中華人民共和国山東省に位置する海洋産業の中心都市であり、東部沿岸の重要な経済と文化の中心として発展しています。

ka11.jpg
  (赤の広場 モスクワ  ロシア連邦 2014年)
ロシアは大好きな国なので何回ともなく足を運びました。真冬の雪のロシアは綺麗です。ロシア人と文化は素晴らしいのですが、政治体制とプーチンは大嫌いです。

NLfelume.jpg
  フェルメール  アムステルダム オランダ

また中国人民解放軍海軍北海艦隊司令部のある軍港として有名であり中国初の空母『遼寧(り ょうねい)』が母港としたことでも知られています。

0002.jpg
  ボンベー インド

近年、中国最大の家電メーカーとなったハイアール(海爾集団)や中国最大のテレビメーカーであるハイセンス (海信集団)も青島を本拠としています。

ka10.jpg
  (ダブリン市内の観光バス  アイルランド共和国 2019年)
最初にアイルランドを訪問したのは1999年でした。学会に出席するためです。トリニティ・カレジで開催されました。

PRinka.jpg
  クスコ ペルー

 私が生れた1940年代では青島がこのように大都会に発展するなど想像もできなかった。生まれ故郷が立派な都市に大変貌したことは嬉しくもあるが他方で古いものが無くなり望郷の痕跡が残っていないようで寂しいです。

ka08.jpg
   (コトル ボスニア共和国 2010年)
サラエボなど、アルバニアのチラナから入りました。内戦の悲劇を実感しました。クロアチア、セルビア、モンテネグロ、スロベニア、マケドニアなどバルカン諸国は歴史的に非常に興味深い地域です。

MXcity.jpg
  メキシコシティ  メキシコ

これは私の記憶がまるでROM(Read Only Memory)に焼き付けれたような中国・山東省・青島に関わるノスタルジです。 

kr05.jpg
   泰山 山東省 中国

5歳までしか住んでいなかった青島ですが、まるで50年も長きに渡り青島で生活したかのように数々の想い出が浮かんできます。
80歳になっても夢の中で青島にいた幼児の自分の姿を見つけます。

ka07.jpg
  (ミラノ市内 ドーモ近くの繁華街 2018年)
ミラノは何度も行きましたが、いつもお洒落で素敵な都会です。是非とも一度はオペラ座でプッチーニを聴きたいものと、熱望していますが実現していません。

私は世界中どこでも中国人に会うと、゛青島を知っていますか゛と尋ねてみます。多くの中国人は、゛もちろん知っています。綺麗で素敵な都会です。゛と答えてくれる。

ka06.jpg
  (極寒のカザン タタールスタン  ロシア  2019年3月)
地理的にはロシア連邦共和国のヨーロッパ側のヴォルガ川流域に位置する。正式にはタタールスタン共和国という。アフガニスタン、パキスタン、ヒンドスタン、ガザフスタンなどのように「スタン」が語尾につけばペルシャ語に語源をもつ「人々の土地、国」を意味する。

私は待ってたとばかりに、゛私はその青島で生まれました。゛と得意になって自分史を語りだす。古き良き時代には名優『三船敏郎』も生まれた。第二次大戦で日本文学者『ドナルド・キーン』も青島に上陸したと聞く。

ka05.jpg
  (マウント・クック ニュージーランド 2019年7月)
小さな飛行場から6人乗りの小型機が飛び立ちます。雄大なタスマン氷河を登り詰めて深い雪に覆われたタスマン氷河に着陸しました。機体の足には小さな 車輪とその横にスキーが付いています。

「万巻の書を読み、万里の道を行く」
名人の言葉に憬れ懐かしい山々に数回登りました。2013年11月にヒマラヤ街道を10日間も歩き、エベレストの姿を眺めました。

ka03.jpg
  (ミケーネ文明 クレタ島 ギリシャ 2010年5月)
ギリシャ本土のヘレニズム文明よりも古いというミケーネ文明、神話の物語は面白い。

まさに厳かで神々の座であることを実感しました。富士山にも40年ぶりに登りました。登山と農耕による自然との融合は、老衰防止と回春活力になっています。

ka04.jpg
  (サントリーニ島 ギリシャ 2010年5月)
近くの風車で有名なミコノス島など、エーゲ海をクルーズしました。紺碧の海の色と真っ白な建物、見事なコントラストでした。

趣味は地図読み
私の子供の頃から変わらない趣味は、地図を見ることです。私の旅行の楽しみは、事前に旅の地図によるシミュレーションです。そして土地の情報を与えてくれた地図と現実の世界とが同じであるかどうかを確認する喜びです。

            ka01.jpg
     (タージマハール インド共和国 2000年)
インドの人々はヒンドゥー教こそが宗教の原点であると誇りにしています。一神教の厳しさもなく穏やかで寛大な教えです。

地図は、様々なメタファとして使われて、比喩表現によって人の心の中に強い心像を描き出す役割をもっています。

sakurada.jpg
   サクラダ・ファミリア  バルセロナ  スペイン

また地図は、思考過程を図解したものです。それは、発想・創造や問題解決に必要な頭で考えたものを、眼で考えるようにしたものといえます。

続く  「カメの旅物語」(その2)

バックナンバー(カメの旅物語)
その1 | その2 | その3 | その4 | その5
----------------------------------------------------------

---->  カメのホームページへ戻る