「カメの旅物語」(その3) 海外への憧れ
2022年8月17日
斉藤 孝
続編(その3)
小さい頃から海外に憧れました。それは地図だけの世界でした。
これまでの海外の旅の想い出について写真を題材にして述べたものですが、プライベートな雑文付き写真アルバムといえます。
ウルムチ 中国
1976年5月、アメリカ・ウィスコンシン州のマジソン市で開催された医療学会に出席しました。初めてのアメリカ合衆国の旅です。まだ東芝の社員でしたから海外出張はなかなか許可されませんでした。
兵馬工 西安 中国
それはMUMPSと呼ぶ医用プログラミングに関する国際会議でした。医者や医学研究者、メーカのシステム・エンジニアなど多数参加し、多くの友人を得る絶好の機会になりました。
ルクソール エジプト
その時に知り合った米国の学者仲間の縁で、2001年になり私のサバティカル研修、すなわちカリフォルニア大学客員教授として滞在することが実現しました。
シドニー オーストラリア
真冬のニュージーランド 2019年7月
2019年7月に初めて真冬のニュージーランドに行きました。Mt.Cook(標高3.724m)の タスマン氷河にスキー付き軽飛行機で着陸し雪山を楽しみました。
南半球でもスイスアルプスのような白銀の山々が待っていました。
タラの丘 アイルランド
小さな飛行場から6人乗りの小型機が飛び立ちます。雄大なタスマン氷河を登り詰めて深い雪に覆われたタスマン氷河に着陸しました。機体の足には小さな 車輪とその横にスキーが付いています。僅か20分の飛行でMt.Cookの近くの氷河に着きました。
ブラチスラバ スロバキア
ベネルックス諸国 2018年2月
2月の厳冬期、ベネルックス諸国を訪れるためドイツのデュッセルドルフに入り、コブレンツからライン河下りをしてボンに行きました。ケルンでカーニバルを見物した後、アーヘンとトリーアに行きました。
赤の広場 モスクワ
共産主義の生みの親ともいえるカール・マルクスが青年期まで暮らした古都トリーアを観光しました。プロイセン生まれの彼は12歳の時にトリーアのギムナジウムに入学しました。
ブランデンブルク門 ベルリン
青年マルクスはユダヤ人詩人ハイリッヒ・ハイネに熱中し将来は詩人になりたいと夢見たそうです。2018年のマルクス生誕200周年でもあり、中国政府から寄贈されたマルクス像を見物する中国人の「レッドツーリズム」(紅色旅遊)の旅行者で賑やかでした。
マチュピチュ ペルー
チュニジア陸軍により救助 2018年9月
アフリカ象に乗り込み雪のアルプスを越えてイタリア半島に遠征したという伝説があるハンニバル将軍。彼はローマとのポエニ戦争を戦ったカルタゴの英雄でした。
カルタゴ チュニジア
9月にカルタゴの遺跡あるチュニジアを巡りました。カルタゴ滅亡後はローマの支配で繁栄した土地ですから数多くのローマ帝国の遺跡が残っています。
タトラ山脈 スロバキア
ドゥッガ遺跡、エルジェムの円形闘技場。ローマ市に残るコロセッセオに次ぐ大きなものです。この北アフリカの地で剣闘士と猛獣との闘技させたのです。
ベルリン冷戦の壁 ドイツ
北方ブリタニア、ゲルマニアからガリア、東方アナトリア、シリアそして北アフリカまで、 何処に駐屯しようともローマ軍人は円形闘技場、大浴場など標準化された建物で楽しめたのです。
ブレズノ スロバキア
ローマ人の娯楽は豪快でした。チュニジアは北アフリカに位置しますから南部にはサハラ砂漠が広がります。雨量は極端に少なく乾燥しています。ところが南部に位置するエルジェム円形闘技場を観光した帰り道です。
広東 中国
雲行きが怪しくなりスースの近くで雨が降り出しました。チュニジア人にとり恵みの雨です。なかなか雨は止みません。激しくなり下水が不備な道路が雨水で溢れだしました。
エルサレム イスラエル
やがて道路が川のように大雨になりました。小さな川の護岸は決壊して付近の道路に水浸しです。大型観光バスの車体底部、トランクルームが水没する状態になりました。そしてエンジンの調子もおかしくなりストップしました。
アレンビー橋 ヨルダン
カナリア諸島クルーズ
早春3月はカナリア諸島クルーズに出かけました。コロンブスやマジェランなどが住んだこともある島々で す。
オペラ劇場 キエフ ウクライナ
カナリア諸島はスペイン領で、マデイラ島はポルトガル領です。アフリカ大陸の北西沿岸に近い大西洋 上にあり大陸で最も近いモロッコからの距離は500kmもあります。
オフィッツ美術館 フィレンツェ イタリア
テネリフェ島にはスペイン最高峰テイデ 山(海抜3718m)があります。マデイラ島出身サッカー選手のロナルド像と写真を撮りました。
ベナレス インド
大航海時代の初期、コロンブスは新大陸アメリカの発見に向かったが実は東のインドに向かう航路の探検でした。イベリア半島に残った最後のイスラム王国グラナダを攻略中だったイザベラ女王から命を受けたコロンブスは1493年にアンダルシアを出港しました。
ウイーン オートリア
最初の停泊地はカナリア諸島、そしてマデイラ諸島を経て一路大西洋を西に進みました。到達したのは今のカリブ海の島々であり、これを勘違いしてインド諸島であると思ったのです。今日の西インド諸島、すなわちアンティル諸島です。
黄金モスク エルサレム
ナポレオンが生れた島 2019年4月
イタリアの港町ジェノバから美しい海岸リビエラを回りピサの近く港町リボルノを進み船は、コルシカ島のアジャクションに着きました。そこはフランス領でお隣のサルデーニア島はイタリア領です。コルシカ島はフランス革命後に皇帝にまでなったナポレオン・ボナパルトが生れた場所。
嘆きの壁 エルサレム
彼の祖先はポナパルテーノという名のジェノバ出身貧乏貴族の家系だそうです。ナポレオンはフランス語を上手く喋れなかった。
エレバン アルメニア
イタリア人がフランス皇帝になりアルプス越えでイタリア征服を試みました。カルタゴのハンニバルを真似たのですね。ヨーロッパの歴史は実に面白いですね。
ブルノ チェコ
地図にない国 北キプロス共和国 2018年1月
1月に訪れたキプロス島は中世期ベニスの植民地であり、オスマントルコの支配を受けた後、英国の植民地になりました。1960年に独立し、その独立闘争でマカリオス大主教が大統領に就任。
タクラマカン砂漠 敦煌 中国
ところが人口の8割を占めるギリシャ系住民を中心にギリシャとの合併を求める声が根強く、これを背景に1974年にギリシャ合併推進派によるクーデターが発生、これに対しトルコはトルコ系住民の保護を目的に派兵しキプロス島北部を占領しました。
ギリシャ都市遺跡 シチリア イタリア
これが北キプロス共和国の誕生です。北キプロス共和国は独立国として国際的に承認されていません。
独立広場 キエフ ウクライナ
首都ニコシアに緩衝地帯(グリーンライン)がひかれ、北キプロスと南キプロスに分断されています。日本から見ると幻の国ですから地図にない国です。
トカイ ハンガリー
テーブルマウンテン 南アフリカ 2018年11月
南アフリカのケープタウンに行きました。晩秋11月の日本を出発して香港経由で18時間のフライトでした。テーブルマウンテンでは南極から吹き付ける寒い強風、これが南風なのが北半球の常識と異なります。
イグアスの滝 ブラジル
ケープタウンでは北風が暖かで窓も北向きが最適なのです。ケープタウンはサンフランシスコ湾に似ていてそこに浮かぶロベント島は刑務所のアルカトラス島にそっくりです。
ベルデナド スロバキア
マンデラが収監されて過ごした長い年月、そこで共に過ごした貧しいアフリカーンズの白人看守との交流を描いた『マンデラの名もなき看守』を思い出しました。
アフリカーンズはボーア人とも呼び17世紀頃にオランダやドイツから渡った子孫です。後から来た英国系の人々と違い独立心の強い移民でした。英国と独立のために戦ったボーア戦争は有名で、若き日のウインストン・チャーチルも従軍したとも言われています。
ノイシュバンシュタイン城 ドイツ
12年前の2010年晩秋11月、ネパールに出かけてエベレスト街道をトレッキングしました。その道順は、タンボチェ(3867m)、パンボチェ(3901m)、ペリチェ(4215m)、トゥクラ(4593m)、ロブジェ(4930m)、ゴラクシェブそしてゴールはカラパタール(5545m)でした。
サハラ砂漠 エジプト
渓谷を流れるドオドコシ川はエベレストの氷河を源流とする川で、急流を吊り橋で数回渡りました。進むにつれて酸素が半分となり高山病の対策は重要でした。
ナイヤガラ カナダ
高地に住むチベット人やシェルパ族にとって普段の生活の道ですから、多くの村々が点在し子供たちは学校に行き、人々はラマ教に帰依する信仰深い穏やかな生活をおくっています。日本人にも馴染めるチベット仏教(ラマ教)です。彼らの顔は日本人とそっくりでした。そして何処でも聞こえる唄は「レッサンピリリー」の歌声でした。
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