斉藤孝  カメのブログ

カメの個人的ブログです。私の趣味、ガーデニング、友人との交流

勝負の神様ー秋保神社の「初詣」と「どんと祭」


勝負の神様
   秋保神社の初詣と「どんと祭」                 
                                   澤井 清
                                 
 毎年恒例の「初詣」と「どんと祭」に行ってきました。近年は地元の「秋保神社」で済ませることにしている。「秋保神社」は勝負の神様として、全国的にも知られている。仙台出身のオリンピックゴールド • メダリスト「羽生結弦」選手が参拝し優賞以来、多くの人達が参拝するようになった。

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  初詣でにぎわう秋保神社

秋保神社
 秋保神社の創建は、大同 3 年(808 年)、坂上田麻呂が蝦夷平定の際、この地に熊野神社を祀ったのが始まりと伝えられている。
 室町時代、この地を治めていた秋保村領主の先祖で、最上に流浪していた平盛房(たいらのもりふさ)が、信州諏訪大社に本土の回復と居城奪回を祈願し、願いが叶って戦勝の御神徳を得ることが出来たと言われている。その後、諏訪神社の御神霊をこの地に祀った。以後「戦いの神」として崇拝されるようになった。

 「コロナ」も落ち着いたためか、例年になく多くの参拝者で賑わっていた。参拝の順番が来るまで小雪の降る参道をゆっくり進むと、「のぼり」がいっぱい。ふと見ると、遠く北海道「函館市」の馬主協会の「のぼり」が風ではためいていた。その他、全国各地の祈願者の「のぼり」千本以上が立っていた。

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北海道「函館市」馬主協会の入賞祈願「のぼり」

どんと歳
 1 月 14 日仙台では、前年度に使用した御神札や御守り、また門松や正月飾りなどをお焚き上げし、その御神火にあたると 1 年間、無病息災・家内安全で過ごせることができるといわれている。このため、私も秋保神社の御神火にあたってきた。
 秋保神社の「どんと祭」も同様、18 時から火入れとなり、19 時からは御社殿での市の無形民俗文化財「秋保神社神楽」が初奉納される。

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「どんと祭」お焚き上げ前の神主による祈願

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 「どんと祭」神主による着火

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 「どんと祭」燃え上がるお焚き上げ:この火にあたると一年間無病息災で過ごせる

どんと祭の由来
 特に宮城県内各地の神社で盛んに行われ、仙台市の大崎八幡宮の「松焚祭」(まつたきまつり)が宮城県最大規模である。いつ始まったのかは不明であるが、1949 年(嘉永 2 年)には恒例行事となっていた。正月飾りを焼く行事は1880 年ごろまでは大崎八幡宮特有の行事であった。
「どんと祭」という呼称は、地元新聞社である河北新報が 1906 年 1 月 14 日の記事において、「九州で行われる類似の行事ではドンドととなえている」「大崎八幡宮の総本社である宇佐八幡宮は大分県にあるため、九州の風習が入ってきた」という根拠無い記事を載せたことや、松焚祭の観光化が進んでいたことから、地元が記事に便乗したとのことで定着した。仙台市以外の神社に広まったのは高度経済成長期以降である。

 それでは、宮城県最大規模の豪快な「どんと祭」である大崎八幡宮の松焚祭も併せてご覧下さい。


出典 【どんと祭の点火,燃えさかる炎】2021/01/14,大崎八幡宮,宮城県仙台市,

    タナカアツシ https://www.youtube.com/watch?v=J_hSkxUDVko


 最後に皆様の健康と家内安全をお祈りして、新年に相応しい雅楽奏者「東儀秀樹」の演奏「鬼滅の刃:炎」をお届けして終わります。雅楽の笙と篳篥による優雅な演奏をお楽しみください。


東儀秀樹  鬼滅の刃「炎」
出典:https://www.youtube.com/watch? v=VRhz2j9Ed24

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カメの旅 伊勢詣と熊野詣 2022年12月11日


 伊勢詣と熊野詣 

     日本的なアニミズム 
 
          2022年12月11日

 神格化された天皇制は、70数年前までの日本の現実だつた。今でも皇室祖を「神」として仰ぐ「伊勢神宮」を観光した。
鳥居下を歩き、初めての伊勢詣になった。

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天照大御神をお祀りする皇大神宮(内宮)と、
衣食住を守る豊受大神宮(外宮)に分かれていた。
内宮と外宮とは、そういう意味だったのか。

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万物に霊魂が宿るという信仰をアニミズムという。
霊魂を「神」と呼び、「神宮」に祀るという日本の多神教。

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一神教のようにバイブル・コーランや仏典などテキストは残さなくても、いたるところに「神宮」を残してきた。
寛容な日本的なアニミズムの特色といえる。
神宮(神社)は、日本人の「心のふるさと」である。

熊野本宮大社、熊野那智大社そして熊野速玉大社の熊野三山に詣でた。
「那智の滝」は熊野那智大社の御神体。

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「速玉」は過去、「那智」は現在、「本宮」は未来を表す。
過去を癒し、現在の恐れや不安をなくし、未来の喜びを創造する。民俗信仰によって実にうまく考え出された。

熊野は森が深く、古くから「いにしえの地」と呼ばれ、亡くなった先祖が宿る。
そこに行って戻ってくることは「再生」を意味する。
これまでの罪やけがれを落として生まれ変われる。

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熊野古道はサンチャゴデコンポステラ巡礼道のようだ。
聖ヤコブの遺骸を詣でる炎天下のコンポステラ巡礼。
ワイン飲み過ぎで酔っ払い、そして日射病で倒れる。

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大自然を崇拝する緑豊かな熊野詣。
清い水辺と深い緑の山々に入り込める。
滝は生命の母。心身とも清くなる。
熊野古道の巡礼は神への信仰のためではない。
自分を見直し、悟りを自覚する修行のためだ。
熊野詣は世界の巡礼者を魅了するに違いない。


橋杭岩の後ろに熊野灘の温かな黒潮が流れている。
冷たい雪が降る高野山は、巨大な墓地だった。
墓石を見ていると薄気味悪い。杉の大木は線香の代わりだ。
明智光秀など敗軍の将から現代の企業殉死者まで、差別なく慰霊碑が並ぶ。
高野山(金剛峯寺)は平安時代に空海によって、開かれた。

一粒の塵のような土や石が集まって、
  そびえ立つ山となり、
     一滴のしずくが広く深い海をつくる。

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空海は、深山や大海原といった大自然の姿の中に、その真理を見出した。
古代インドで誕生した仏教が日本に渡来すると、こうも哲学的に変わるものか。
日本的アニミズムと結び付けた日本的な仏教と解釈した。
空海は哲学者だった。

高野山は、メッカやローマ、ベナレスなど宗教にこだわる聖地ではない。世界中から巡礼者は殺到するだろう。

「Cool Japan」は、紀伊半島に点在している。

終わり
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カメの旅 四国 「三つの吊り橋を渡る」  2022年11月29日

  四国 「三つの吊り橋を渡る」 

         2022年11月29日~12月2日

四国と本土を結ぶ橋といえば、巨大な吊り橋が有名である。「瀬戸大橋」、「しまなみ海道」そして「大鳴門橋」。

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「しまなみ海道」は小島を結びつけた海の橋。蛇行している。

今回は「瀬戸大橋」と「しまなみ海道」、そして「祖谷のかずら橋」を渡った。三つともサスペンション・ブリッジ(吊り橋)の構造を共有している。

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 「祖谷のかずら橋」は、ユラユラと揺れてスリル満点だった。

「祖谷のかずら橋」は、長さ45m・幅2mでとても小さいが最古の吊り橋。約800年前、平家の落ち武者によって架設されたという。シラクチカズラで作られおり、3年毎に架け替えが行なわれてきた。 

一歩踏み出すたびにユラユラと揺れてスリル満点だった。

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  「祖谷のかずら橋」は、素朴な本物の吊り橋。

祖谷渓は吉野川支流の祖谷川にあり、全長は10kmにも及ぶ。
樹木が生い茂り、深山幽谷の景観である。
「大歩危小歩危」は、断崖を通らなければ辿り着けない「秘境」だった。

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「瀬戸大橋」の記念碑の前、吊り橋ワイヤーの断面があった。

「瀬戸大橋」は、全長9368mで上部が自動車道路と下部に鉄道の2段構造。
「しまなみ海道」は、全長約60kmで瀬戸内海に浮かぶ美しい島々を結びつけている。その一つ「因島大橋」は、長さ770mで日本最長の吊橋として完成した。

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 高速道路はループして入る。下は鉄道が走る。

金門橋などサスペンション・ブリッジは、今では珍しくないが「祖谷のかずら橋」の知恵は生きている。
瀬戸内海に沈む美しい夕日。青い海、緑豊かな島、美しい橋が織り成す風景に息をのみ、島に暮らす人々を結びつけた三つの吊り橋の姿に感動した。

愛媛県・内子
大正ロマンに溢れた「内子町」は、ハゼの流通で財をなした商家が建ち並ぶ町並みがある。ハゼは和ローソクの材料になる。
知らなかった。豪商は芝居小屋まで作ったという。

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   金比羅詣では初めての経験だった。

道後温泉
夏目漱石の小説『坊つちやん』にも描かれた日本最古の温泉。熱海のような高層ビルが立ち並ぶ温泉街になっていた。夜景に松山城が見えた。明治初期の郷土の英雄、秋山兄弟の物語、司馬遼太郎著「坂の上の雲」を思い出した。

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  金比羅さんは長い階段の連続。寄進された灯篭群。

高知県・四万十川  
本流に大規模なダムが建設されていないことから日本最後の清流と呼ばれる。あゆを食べた観光屋台船は橋げたに衝突した。欄干の無い橋(沈下橋)は四万十川に多く残っている。

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 屋形船の老船頭は操舵を誤り沈下橋に触れた。

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   金比羅宮は海の守護神なのでスクリューの記念碑

金比羅宮
通称は「金比羅さん」である。特に海上交通の守り神として信仰されており、漁師、船員など海事関係者の崇敬を集める。参道には当時を偲ばせる燈篭などが多く残る。

四国巡礼という厳かな旅ではなく、土佐・桂浜や高松・栗林公園など54年前の新婚旅行を思い出す小さな四国観光だった。
      (終わり)
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2022年  ヒマラヤ戦友会

  「ヒマラヤ戦友会」 
    3年振りに開催された。

 2022年11月26日は、「ヒマラヤ戦友会」の10回目が開催されるという記念すべき日だった。

12年前の晩秋、2010年11月13日~23日、ネパールに出かけてエベレスト街道をトレッキングした。
その道順は、タンボチェ(3867m)、パンボチェ(3901m)、ペリチェ(4215m)、トゥクラ(4593m)、ロブジェ(4930m)、ゴラクシェブそしてゴールはカラパタール(5545m)であった。その仲間の会を「ヒマラヤ戦友会」と呼ぶことにした。

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「ヒマラヤ戦友会」の前日、コブキ女将から、このようなメッセージを受け取った。身が締まるコトバになった。

いよいよ明日が「ヒマラヤ会」当日となりました。
昭さん12個のアイスクリームの差し入れ期待しております。
嬉しい事にカメも民子さんも出席となりました。
こんなにうれしい事はありません。

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心配なのは私の意欲減退です。
なんとかこれから自分自身にはっぱをかけてみます。
何より、皆様に会えることを楽しみにしております。
市が尾駅から徒歩10分少し坂道がありますが
トンネルをこえますと公園の紅葉が見事です。
グーグルにでも道案内させてお出で下さい。

女将コブキは張り切り過ぎたのだろうか、少し心配になった。
しかし当日は、4人姉妹と一緒に優しそうで元気だった。ホッと安心した。愛用のキッチンで凄腕を振るっていた。

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今から3年前になるが思い出してほしい。コロナ禍前で平和だった世界中。ウクライナ紛争もなかった良き時代だった。
前回の「ヒマラヤ戦友会」は、2019年11月9日に横浜・市ヶ尾の久米宅で開催された。トンベは元気に真ん中に座っていた。オスタのデコレーション・ケーキは注目の的だった。

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あれから3年の月日は流れた。コロナ禍による会合自粛という苦しい日々を耐えてきた。コロナ冬眠の厳しい日々を送ってきた。余命も残り少ない高齢ワンダラーにとり「ヒマラヤ戦友会」を開催して欲しいという熱望。開催は苦渋の英断だった。

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コロナ禍中に、朋友トンベ(田中透君)を2021年に亡くした。
トンベは、天空の厳かな山頂へ登っていた。そこは白い峰エベレストよりも高い天国の岩稜である。トンベはいつも仲間の中心にいて、みんなのことを思いやる優しい心で、「ヒマラヤ戦友会」の絆を大切にしてくれた。トンベを偲ぶ会としても是非とも「ヒマラヤ戦友会」の開催は期待された。

2022年11月26日についに実現された。感無量だ。

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ここで、「ヒマラヤ戦友会」の歴史を振り返ってみよう。
最初の会合は、2011年11月10日(毎年11月第二土曜日)に鵠沼カメ宅で開催された。10年前になるから、みなさんは高齢者であったが70歳代と少しは若かった。

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2014年から2018年までの記録である。コブキ女将の采配による手料理の数々は「ヒマラヤ戦友会」の名物になった。最後の締めは、いつもオスタの豪華な巨大なケーキだった。

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あれから回数を重ねて2019年で9回目を迎え、翌年2020年は10回目という記念すべき祝賀年となる予定だった。
しかしながら2020年は実現されなかった。すべてはコロナ禍に原因がある。

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2022年11月26日は久々の再会だった。何となく照れくさい雰囲気も感じられたが、コブキ女将の豪華な手料理によって一気に昔のみなさんの食欲はもどったようだ。

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もりもり食べ、カブカブ飲む、そして乱れた雑談。ヒマラヤ戦友会は3年間のブランクなど忘れたかのように盛況になった。

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隊長のマサボンからの挨拶で始まった。テーブル上に所狭しと並べられた豪華な料理を目の前にして、スピーチよりも、何から食べようかという食欲戦略、よだれを溜め込んでいた。早くも女性のお皿は空っぽになっていた。

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シャンパンとシャブリによる乾杯。トンベの追悼などに続き、コブキ女将から手料理の紹介があった。コブキ女将の苦労を忘れたかのような吉之助亭主の眠そうな顔。

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みなさまからの膨大な差し入れの数々は食卓を一層、豪華なものにした。「太一」は一早く平らげ満足していた。次は稲荷寿司とシシトウの春巻きを狙おう。胴回りが太い太一。

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参考までに料理の差し入れを紹介しておこう。コブキ女将の指示であるから粗相なきよう緊張して準備した。

オスタ様
筑前煮、漬物、ケーキよろしくお願いいたします。
量は少なめにしてください。

民子様
ローストビーフ、例年のように差し入れお願いできますか。
だるま殿、高原ビールの手配よろしくお願い致します。

光枝様
果物よろしくお願いします。

皆さま
ワイン赤白、日本酒、その他、つまみ類の差し入れ大歓迎
よろしくお願いいたします。

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コブキ女将の陣頭指揮の下で豪華な手料理の数々を楽しみ、ヒマラヤの荘厳な峰々を懐かしみ、エベレスト街道で苦楽を共にした旧き友は楽しく歓談した。

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こんな宴会をよくもまあ10年も続けてきものだ。ささやかな伝統になった。「ヒマラヤ戦友会」は誇り高い会合といえる。

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毎年問題になる事は、料理の内容と当日の服装についてだろう。ダルマは過去5回も全く同じ衣装で参加続けている。ユニクロへ行き、洒落たものを見つけてきてほしい。

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「レッサンピリリー」の歌声に合わせて、ダルマとカメは踊る。カトマンズから、エベレスト街道の道中まで「餃子モモ」を食べながら毎夜踊った。下手な踊りにシェルパは呆れていた。

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ヒマラヤ戦友会は、品格ある宴会を続けていくだろう。老化痴呆は深刻な課題になっても酒宴となれば、なんとか誤魔化して出席できるだろう。90歳まで頑張ろう。

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オスタの巨大なケーキは何層も重ねたお菓子である。
上手く塗り固められた豪華な姿は、まるで結婚式のケーキのようだ。名パティシエ、オスタは誇らしげに微笑んでいた。

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均等にナイフを入れる。これがなかなか難しい。上に飾られたブドウの数にも配慮した。ミリ誤差も許されない。食べ物の恨みはいつまでも残る。あさましい。

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テレビ大画面に映し出されたエベレスト街道の写真と唄。
神々のヒマラヤの荘厳な峰々の姿こそ想い出を飾る最高の記念になった。
渓谷を流れるドオドコシ川はエベレストの氷河を源流とする川で、急流を吊り橋で数回渡った。進むにつれて酸素が半分となり高山病の対策は重要だった。
何処でも聞こえる唄は「レッサンピリリー」の歌声だった。

Resham firiri, resham firiri
Udera jaunkee
dandaa ma bhanjyang
Resham firiri

レッサンピリリー、レッサンピリリー
 ウーレラジャンキー
 ダーラマバッサン
 レッサンピリリー

   下記の動画を矢印クリック(「レッサンピリリー」の歌声)



2022年11月26日に開催された「ヒマラヤ戦友会」、
戦友のみなさまの益々の御健勝を祈ります。
会合を盛りあげて、場所と豪華な手料理を提供頂いた久米御夫妻に心から感謝を表します。

   2022年11月27日
          斉藤 孝 (カメ)

関連アーカイブ 

(1) エベレスト街道トレッキング (2010年11月13日~23日)の行動記録(pdf)

この記録は印刷版(pdf)によるもので行動記録の途中20頁まで読むことが出来る。
ダーサ「相川正汎」のコトバやメンバープロフィール(写真付き)、そして行動記録(途中まで)


(2)  『レッサンピリリー』 想い出を飾る (動画)  2021年8月


(3) カメのエベレスト街道  2010年11月13日


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カメの旅 京都 「80歳の修学旅行」 2022年11月19日

カメの旅 京都 
  「80歳の修学旅行」 
          2022年11月13日~20日
                  斉藤 孝

 2022年9月6日は80歳の誕生日になった。1942年9月6日に中国・青島で生まれて、日本の各地で育った。中学生の頃、初めて京都と奈良の修学旅行を経験した。古いモノクロ写真に神社・仏閣など名所が数枚残っていた。

  そうだ。「80歳の修学旅行」、やってみよう !!

2022年11月13日~20日まで一週間を京都で過ごした。


  天晴な紅葉の日本庭園。穏やかな自然の美。
   『金閣寺』は、金箔に塗り込まれていた。
  厚化粧であるが、清楚な室町庭園の中で落ち着いていた。

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 (それにしても金ピカで趣味が悪いが、木造の細かな造作ですっきりしている。)

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 (金閣寺の美は自然の山と木々、そして池などバランスの良い配置で演出される。)

雨上がりの山道を登り、夕闇の『清水寺』を眺めた。
海外の若者達で大変賑やかだ。京都は世界の憧れの町。

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  (雨上がりの清水寺 夕闇と立ち込めた霧が優雅)
清水寺といえば、「清水の舞台から飛び降りる」ということわざが有名。
「思い切って大きな決断を下す」という意味である。

余談であるが、海外観光客の日本観光の期待。国によってこんなに違うらしい。
欧州のドイツ、フランス、スペインなどは「伝統工芸」「伝統文化」「街の歴史」など観光資源の魅力を評価する。米国や英国など英語圏は「上質なサービス」や「外国人に優しい(観光しやすい)」そして「清潔」「治安」、観光の快適さを評価する。中国、香港、台湾、韓国は、「交通の利便性」「食事」を期待する。「伝統文化」よりも、より日常生活の魅力を評価する。

ベルサイユやシェーンブルンなど人工庭園しか見たことのない異邦人。
自然と静けさを尊ぶ日本庭園は理解できないだろう。

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(清水の舞台は、観音様に雅楽や能など伝統芸能を奉納するために造られた。)

大陸系庭園は、人為的な美しさを再現することで、権力を誇示。
自然すらも文明で支配できるものと強権的に主張する。

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  (嵐山)  夏に来たことがあるが紅葉は初めてだった。

隠遁したら命を奪われる異邦の権力者。一神教の恐怖。
隠居しても自然庭園を愛でる余生を与える日本。多神教の寛容。

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         (東寺の五重塔は高さ54.8mを誇り、日本一の高さの木造建築)

『平等院』は老夫婦のために絶景ポイントを与えてくれた。
ノンビリと一週間も過ごす終活の京都旅行だった。
町中がテーマパークになっていた。SNS撮影のために観光している。

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(ライトアップされた清水寺や青空の下の平等院)

京都の名所とは、寺社仏閣ではなく日本庭園にあるようだ。
自然との調和を重んじ、自然への敬意、移り変わる時間。
わび・さびという美意識。
これこそが日本庭園の魅力と確信できた。

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     (日本の伝統仏教宗派の大本山の3分の1以上は京都にあり、
     京都五山など規模が大きいお寺がいくつも存在する。)

京都では古くからの中心市街の「洛中」と、外縁部の「洛外」では文化が異なると言われる。    
     80歳の修学旅行で学んだ。


(続き1)

 「寺侍」 森家のルーツを探る 

秋晴れの下、『西本願寺』を訪れた。浄土真宗の本山で親鸞の廟堂がある。親類知人には、信者門徒が多数いるが、私は初めての参拝。

本願寺は文永7年(1272年)、親鸞の廟堂として京都東山の吉水の地に創建された。その後、比叡山延暦寺から迫害を受けるなど場所は転々とし、天正19年(1591年)に豊臣秀吉の寄進により大坂天満から移転された。

本願寺が東西に分裂した原因は、1570年から1580年までの10年間、織田信長と石山本願寺が間戦った石山戦争までさかのぼる。
やがて秀吉の裁定が下り、教如は隠居して准如が本願寺の十二代目となった。これが今日の本願寺派であり、『西本願寺』となる。

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(唐門。桃山時代の豪華な装飾彫刻を充満した四脚門。彫刻は見事。)

森家の御先祖様は「寺侍」だった。格式ある家柄なのだ。

『西本願寺』など門跡寺院では、武士を雇用していた。
      そのサムライを「寺侍」と呼ぶ。

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(真っ赤な楓の紅葉 京都はどこでも彩り鮮やかだ。)

「寺侍」の武家屋敷は簡単に見つかった。『西本願寺』の近く、下京区文覚町384にある。門構えは隣の近所の京町長屋とは造りがことなる。一見して、武家屋敷のたたずまい。現在、築300年の武家屋敷は、『京都コンシェルジュサロン』と呼ばれている。

『京都コンシェルジュサロン』は、森家の寺侍屋敷を購入し大切に継承。海外観光客のために京都の文化を広報している。「寺侍」を忘れないでほしい。
  
    http://concierge-salon.com/about.html

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(武家に仕えるサムライとは異なり、名門跡寺に仕える「寺侍」仕事は多忙だった。)

森家はワイフ栄子の母親の実家である。この機会に「森家」のファミリールーツを探った。栄子の話によると約70年前には森ミツと呼ぶ祖母(1882年生)から昔話をよく聞かされたそうだ。当時は、 栄子の母(寿)の兄夫婦(森重一と文江)も同居していた。

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(御影堂  寛永13年(1636)建、中央に親鸞聖人の木像、両脇に本願寺歴代宗主の影像を安置)
阿弥陀堂 宝暦10年(1760)再建、東西42メートル、南北45メートル、高さ25メートル。中央に阿弥陀如来の木像、法然聖人と聖徳太子の影像を安置している。巨大な木造建築。

寺侍は、用心棒ではなく経理や維持などの仕事を一切任されていた。剣術よりも明晰な頭脳によって『西本願寺』を支えてきたという。

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(飛雲閣  金閣、銀閣とともに京都三名閣の一つ。三層からなる楼閣。)
桃山時代に発達した豪壮華麗な書院造の様式。書院の北側には、現存する最古の能舞台がある。
「寺侍」は西本願寺の書院も維持・管理し「寺侍」は陰ながら宗主を警護した。

森家の寺侍屋敷は約300年に渡り、威厳を持って京都と本願寺の歴史を見守ってきた。御先祖様の偉業、そして子孫への誇りという贈り物に、二人は心から感謝した。

余談であるが、「武家屋敷」について初めは疑問を感じた。
 京都は天皇と公家、そして神社・仏閣の町。
 京都に武家屋敷は変ではないか。
 殿様とは誰だろうか。
 お城は何処にあるのか。

 『二条城は』は近くにあるが・・・。
 戦のための城ではなく迎賓館のようだ。

 江戸時代になり武家が治める幕藩体制が確立されたが、
 京都は朝廷警護の大名はいたが・・・。
 その家臣の武家屋敷なのか・・・。

森家は、300年も続く「寺侍」だった。武家屋敷は、寺侍屋敷として使われてきたのだ。森家の御先祖は、寺侍の仕事を巧みに処理し300年の長き『西本願寺』の歴史を見てきた。


(続き2)

『京都ぎらい』 京都は好きになれなかった ?

 お高くとまっているといったイメージ。あの京都弁、なかでも京女がまくしたてる京都弁が嫌いだ。何でも「さん」を付けたがる公家さん好みのスピーチ。

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 (金閣寺)

しかも京都人は上品だと思っている。京都は歴史が古く街全体が上品に見える。京町家の長屋、風通しも悪くて、とても住みたくない。
逆に考えると、京都コンプレックスかもしれない。

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 (浄瑠璃寺)

「これぞ日本」という歴史ある風景は、京都にしかない。そして日本人の典型として、コトバに表れる優雅とやさしさ。今でもその当時の雰囲気を感じられる場所が数多く存在し、「和」を感じられる場所である。

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 (隋心院  小野小町が隠遁したという寺。 小町は出羽出身。秋田美人だった)

京都は、2000を超える神社やお寺、17の世界遺産を有する日本有数の観光地。 この街は、794年の平安京遷都から1868年まで約1200年の間日本の都として栄えてきた。 
応仁の乱の戦火をくぐり抜けた建築物や仏像、そして庶民が実際に住んでいた町家もあちこちに残る。

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 (銀閣寺)

京都は、街そのものが日本の文化である。
川が流れ、花が咲き、秋には紅葉や銀杏が色づき、四季折々の味わいがある。昔のあたたかい感じがある。

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  (浄瑠璃寺  京都の南、奈良県に近いところにある) 

寺名は薬師如来の居所たる東方浄土「東方浄瑠璃世界」に由来する。近くにある蟹満寺は、「今昔物語集」に出てくる「蟹の恩返し」の縁起で有名。

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 (銀閣寺  雅やかな金閣寺と比べてみる地味である。吉田山が見える。)

足利義政は、焼けてしまった浄土寺の跡地に金閣にならって「東山殿(東山山荘)」を造営。隠やかに生活したいと願う。

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 (平等院  サンディエゴ出身の若い女性が映してくれた。彼女と一緒に撮りたかった。)

本尊は阿弥陀如来。開基は藤原頼通、天喜元年(1053年)に建立された。

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  (萬福寺  珍しい中国風寺。黄檗宗大本山、聞いたこともない)

黄檗宗大本山である萬福寺は中国僧 隠元隆琦禅師(1592‐1673)によって開創された。中国福建省出身の隠元禅師は明代末期の臨済宗を代表する高僧。

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  (建仁寺  石庭であるが白砂でなく、苔の海)

建仁寺は、臨済宗建仁寺派の大本山の寺院。山号は東山。本尊は釈迦如来。開基は源頼家、開山は栄西である。かつて京都五山の第3位であった。

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 (二条城)

二条城は、江戸時代の平城であり近代においては離宮の役割を担った。京都の守護並び上洛時の宿所として造営した城である。

70年前に行った修学旅行の写真はセピア色になり懐かしい友の顔と一緒に残っていた。1956年~1959年頃だろうか。古い京都の街並みと市電だけが写っていたが神社・仏閣など名所の写真は一枚もなかった。

  「80歳の修学旅行」、やってみてよかった !!

                京都は大好きになった。 
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(終わり)  カメの旅 「80歳の修学旅行」 2022年11月









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